(NEW) カント講座のお知らせ

2024年8月3日(土)16時よりNHKカルチャーセンター青山教室において単発の対面講座を持ちます(オンラインでも参加可能+見逃し配信あり)。私が帰国し、面識のない方々と直接やり取りできる滅多にない機会なので、私自身楽しみにしています。是非ご参加ください。
対面形式の詳細とお申込みはコチラ
オンライン形式(+後日視聴)の詳細とお申込みはコチラ

常備軍は全廃すべきなのか

カント倫理学

ロシアのウクライナ侵攻を受けて、カントの著作『永遠平和のために』への注目が高まっているようです。

そこではいくつか興味深いことが説かれているのですが、そのひとつに、常備軍の全廃を挙げることができます。

現実世界を見ていると、非現実的な机上の空論のように思えるかもしれません。

今回の記事では、この常備軍の全廃という主張の妥当性について論じていきます。ただ、カントの主張が現実的かどうかという点ではなく、もっと根本的な部分、彼の説明の整合性についてメスを入れてみようと思います。

カントの説明

カントは常備軍を全廃すべき理由として以下の二つを挙げています。

・先制攻撃の原因となる

・軍人が単なる手段としてのみ扱われることになる

まずは一点目について。カントは、常備軍を持っていると、互いに軍備が拡大していき、歯止めが利かなくなると述べているのです。確かに、世界全体の軍事費は上昇していく傾向にあるでしょう。ただし、それは経済が成長するからであって、それは軍備に歯止めがかからなくなることを意味しないはずです。むしろ見るべきは各国のGDPに占める軍事費の割合でしょう。

諸外国の軍事費・対GDP動向をさぐる(2021年公開版)(不破雷蔵) - エキスパート - Yahoo!ニュース
各国の軍事勢力・軍装備の状況を比較するのにもっともよく使われるのは、軍事支出の額面。だが各国の経済力や人口など多様な要素により、単純な額面比較だけでは不十分とする意見も多い。そこで使われる指標の一つが

1990年から2020年までの各国のGDPに占める軍事費を見てみると、横ばいか、むしろ、減少傾向にあることが分かります。(現在はウクライナや中東で戦争状態となっており、GDPに占める軍事費の割合が一時的に上がっているので、ここ数年の数値は換算すべきではないと思います。)

データを見る限り、常備軍を有していると各国の軍事力拡大に歯止めがかからなくなるという結論は導けません。この点は数値を見れば明らかなので、もういいでしょう。むしろここで私が取り上げたいのは、二つ目の理由の(つまり「常備軍の人間が必ず単なる手段として扱われることになる」という)方です。

カント自身は、この点について以下のように説明しています。

人を殺したり、殺されたりするために雇われることは、人間が単なる機械や道具として他のものの(国家の)手で使用されることを含んでいると思われるが、こうした使用は、われわれ自身の人格における人間性の権利とおよそ調和しないだろう。(カント『永遠平和のために』)

ここでは「目的の思考実験」が念頭に置かれていることは明らかです。「目的の思考実験」は、人格を単なる手段として見なし、扱うことを戒めます。常備軍の軍隊は単なる手段としてしか扱われないことになるため許されない、という論は一見したところ整合性が取れているように見えるかもしれません。

しかし、本当にそこに整合性であり、妥当性があるのでしょうか。

論証の不十分さ

カントが「目的の思考実験」で戒めていたのは、人格を単なる手段としてのみ見なすことでした。そこでは部分的に人格を手段として用いることは否定されていないのです。ペイトンの有名な例をここにも紹介すると、郵便物をどこかに送りたいがために郵便局員を手段として用いることは、そこに郵便局員の人格に尊敬を払う気持ちさえあれば、何ら問題ないのです。考えてみれば、当然のことであり、その余地がないとすると、他者を介してすることのほとんど(例えば、買い物、教育、医療、など)が道徳的に許されないことになってしまいます。常備軍の軍人を含めて、どんな仕事であろうと、同じ理屈が当てはまり、相手に対して尊敬の念があれば、倫理的に問題ないのではないでしょうか。

ちなみにカントは、ある倫理学講義のなかで、常備軍であるかどうかの断りなしに、軍人の存在であり、任務に関して、肯定的な発言をしている箇所があるのです。

軍人は戦場において生命を賭ける。しかしこれは私的な事柄ではなく、一般福祉に関わるのである。(カント『倫理学講義』)

今のロシアのウクライナ侵攻において、ウクライナ軍(の多く)は人々の生命を守るために、つまり、彼らの福祉に寄与するために戦っているのではないでしょうか。こう考えると尚更、なぜ常備軍の軍人の存在はダメで、そうではない軍人は許されるのかという思いが強くなってきます。

さらに言えば、カントは常備軍でさえ、今すぐに全廃せよと言っているわけではなく、「時とともに」という条件を付しているのです。なぜしばらくお間は常備軍が存在することが道徳を蔑ろにすることにならないのでしょうか。それとも本当は道徳的に許されないものの、しばらくは仕方なく認めざるをえないということなのでしょうか。だとすると、しばらくは道徳を蔑ろにしても構わない理由は何なのでしょうか。このような点についてまったく説明されていないのです。

ある職業は絶対悪であるということがありうるか

カントとって常備軍の軍人と似たような扱いをされているのが、性産業従事者です。カントは以下のように言及しています。

金銭のために己を他人の性欲の満足のために他人に委ね、己の人格を貸与する、これはもっとも醜悪なことである。(カント『倫理学講義』)

こちらも抱えている問題は同じで、たとえ相手が性産業従事者でもその人格の尊敬の念を持っていれば、本来は「目的の思考実験」の基準からすれば許容されるはずなのではないでしょうか。

私の目には、カントが「性産業だから」という色目で(つまり結論ありきで)否定しているように見えるのです。しかしその性産業だって、実際にはいろいろあるわけで、日本やドイツなどで法的に禁止されているような売春から、合法であるソフトなものだってあるわけです。さらに言えば、ファッションモデルやレースクイーンやアイドルのような職業だって、「金銭を得て、性を売っている」という側面を否定するのは難しいでしょう。そうやって考えていくと、世の中な実に複雑でさまざなな職業があり、そのどこかに線を引くなどということは不可能であることに思いが至るはずのです。

また、これも繰り返しになりますが、いったい誰がそういった人たちを単なる手段と見なすことを問題にしているのでしょうか。仮にそういう人がいるという話でれば、その人にやめるように求めれば良い話なのではないでしょうか。まさか、性産業に従事する者を手段としてのみ扱わないことなど無理(だからそんな職業に就くことはダメだ)という話ではないはずです。

さいごに

常備軍の話にしても、性産業従事者の話にしても、カント主義者のなかには「カント倫理学に鑑みて当然の帰結」というような書き方をする人がいますが、私はまったく与することができません。そういった立場の人は、カントを正当化するのに必死になるあまり、自分の頭で自由に考えることを放棄してしまっているのではないでしょうか。

ここまでカント、ならびに、それを強引に擁護しようとするカント主義者に対して批判的なことを書きましたが、しかしながら、「人格を単なる手段として用いてはならない」という言明の妥当性は否定しがたいと思っています。この原理を貫けば良いのであって、それを盾にある職業に就くことを悪と結びつけるようなことは越権行為であり、慎むべきだと言っているのです。なぜなら、そこにあるのは職業差別だからです。