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常備軍は全廃すべきなのか

カント倫理学

ロシアのウクライナ侵攻を受けて、カントの著作『永遠平和のために』への注目が高まっているようです。

そこではいくつか興味深いことが説かれているのですが、そのひとつに、常備軍の全廃を挙げることができます。

現実世界を見ていると、非現実的な机上の空論のように思えるかもしれません。

今回の記事では、この常備軍の全廃という主張の妥当性について論じていきます。ただ、カントの主張が現実的かどうかという点ではなく、もっと根本的な部分、彼の説明の整合性についてメスを入れてみようと思います。

カントの説明

カントは常備軍を全廃すべき理由として以下の二つを挙げています。

・先制攻撃の原因となる

・軍人が単なる手段としてのみ扱われることになる

まずは一点目について。カントは、常備軍を持っていると、互いに軍備が拡大していき、歯止めが利かなくなると述べているのです。確かに、そういったことも起こりえるかもしれませんが、常備軍を持っていたら必ず各国が拡大路線に走るとまでは言い切れないはずです。ここには飛躍が見られますが、この記事で焦点を当てたいのは二点目の方です。

カント自身は二点目について以下のように説明しています。

人を殺したり、殺されたりするために雇われることは、人間が単なる機械や道具として他のものの(国家の)手で使用されることを含んでいると思われるが、こうした使用は、われわれ自身の人格における人間性の権利とおよそ調和しないだろう。(カント『永遠平和のために』)

ここでは「目的の思考実験」が念頭に置かれていることは明らかです。「目的の思考実験」は、人格を単なる手段として見なし、扱うことを戒めます。常備軍の軍隊は単なる手段としてしか扱われないことになるため許されない、という論は一見したところ整合性が取れているように見えるかもしれません。

しかし、本当にそこに整合性であり、妥当性といったものがあるのでしょうか。

論証の穴

カントが「目的の思考実験」で戒めていたのは、人格を単なる手段としてのみ見なすことでした。そこでは部分的に人格を手段として用いることは否定されていないのです。ペイトンの有名な例をここにも紹介すると、郵便物をどこかに送りたいがために郵便局員を手段として用いることは、そこに郵便局員の人格に尊敬を払う気持ちさえあれば、何ら問題ないのです。考えてみれば、当然のことであり、その余地がないとすると、他者を介してすることのほとんど(例えば、買い物、教育、医療、など)が道徳的に許されないことになってしまいます。

ただ、だとすると、常備軍の軍人に関しても同じ理屈が当てはまり、そこに尊敬の念があれば、本来は許容されるはずなのではないでしょうか。

そもそも「常備軍の軍人を単なる手段として扱うな!」と言う場合、当然のことながら、人を単なる手段として扱う主体が必要なわけです。その主体とは誰なのでしょうか。

もし、それが一般の臣民である場合、私たちは常備軍の軍人を単なる手段として取り扱わなければいいだけのことであるはずです。そこから常備軍が存在してはいけない理由は出てこないはずなのです。

繰り返しますと、カントは軍人そのものではなく、常備軍の軍人を全廃すべきことを説いているのです。彼は倫理学講義のなかで、常備軍であるかどうかの断りなしに、軍人の存在であり、任務に関して、肯定的な発言をしています。

軍人は戦場において生命を賭ける。しかしこれは私的な事柄ではなく、一般福祉に関わるのである。(カント『倫理学講義』)

確かに今のロシアのウクライナ侵攻において、ウクライナ軍(の多く)は人々の生命を守るために、つまり、彼らの福祉に寄与するために戦っているように見えます。

こうなると尚更、なぜ常備軍の軍人の存在はダメで、そうではない軍人は許されるのかという思いが強くなってきます。ところがカントは説明していないのです(「目的の思考実験」では説明できないのです)。

さらに言えば、カントは常備軍でさえ、今すぐに全廃せよと言っているわけではなく、「時とともに」という条件を付しているのです。なぜしばらくお間は常備軍が存在することが道徳を蔑ろにすることにならないのでしょうか。それとも本当は道徳的に許されないものの、しばらくは仕方なく認めざるをえないということなのでしょうか。だとすると、しばらくは道徳を蔑ろにしても構わない理由は何なのでしょうか。このような点についてまったく説明されていないのです。

ある職業は絶対悪であるということがありうるか

カントとって常備軍の軍人と似たような扱いをされているのが、性産業従事者です。カントは以下のように言及しています。

金銭のために己を他人の性欲の満足のために他人に委ね、己の人格を貸与する、これはもっとも醜悪なことである。(カント『倫理学講義』)

こちらも抱えている問題は同じで、たとえ相手が性産業従事者でもその人格の尊敬の念を持っていれば、本来は「目的の思考実験」の基準からすれば許容されるはずなのではないでしょうか。

私の目には、カントが「性産業だから」という色目で(つまり結論ありきで)否定しているように見えるのです。しかしその性産業だって、実際にはいろいろあるわけで、日本やドイツなどで法的に禁止されているような売春から、合法であるソフトなものだってあるわけです。さらに言えば、ファッションモデルやレースクイーンやアイドルのような職業だって、「金銭を得て、性を売っている」という側面を否定するのは難しいでしょう。そうやって考えていくと、世の中な実に複雑でさまざなな職業があり、そのどこかに線を引くなどということは不可能であることに思いが至るはずのです。

また、これも繰り返しになりますが、いったい誰がそういった人たちを単なる手段と見なすことを問題にしているのでしょうか。仮にそういう人がいるという話でれば、その人にやめるように求めれば良い話なのではないでしょうか。まさか、性産業に従事する者を手段としてのみ扱わないことなど無理(だからそんな職業に就くことはダメだ)という話ではないはずです。

さいごに

常備軍の話にしても、性産業従事者の話にしても、カント主義者のなかには「カント倫理学に鑑みて当然の帰結」というような書き方をする人がいますが、私はまったく与することができません。そういった立場の人は、カントを正当化するのに必死になるあまり、自分の頭で自由に考えることを放棄してしまっているのではないでしょうか。

ここまでカント、ならびに、それを強引に擁護しようとするカント主義者に対して批判的なことを書きましたが、しかしながら、「人格を単なる手段として用いてはならない」という言明の妥当性は否定しがたいと思っています。この原理を貫けば良いのであって、それを盾にある職業に就くことを悪と結びつけるようなことは越権行為であり、慎むべきだと言っているのです。なぜなら、そこにあるのは差別だからです。