200年以上も前にヨーロッパで起きた啓蒙運動から我々が学ぶことなどあるのでしょうか。その点を明らかにしていきたいと思っています。

『その悩み、カントだったら、こう言うね。』
本では世間の人が抱えるであろう悩みに答えていくことで、カント倫理学が私たちの生きる指針たりうるかということを示していきます。とはいえ、カント倫理学には不十分なところがあることも事実です。その点は後世を生きる私たちが手を加えていかなければなりません。本書では、そこまで踏み込んでいます。

『人間関係の悩みがなくなる カントのヒント』
とにかくひとりでも多くの人にカント倫理学について知ってほしいと思い、ミーハーな企画に乗って、書いてみました。本当に売れるのかどうか、自分ではまったく分かりません。

反ワクチン派の人々への対処について
カントは万人に理性が備わっており、誰にでも考え、そして、まともな結論を導く力があるはずであると説きます。しかし、現実を見てみると、ワクチンの効用を絶対に認めようとしない人たちがいます。彼らを理性的なやり方で説得することなど本当にできるのでしょうか。

審判の説明義務について
なぜブンデスリーガの審判は自分の裁いた試合の判定の根拠について口にしないのでしょうか。メディアは話を聞こうとするはずであり、出てこないということは、上(ドイツサッカー協会か審判組織?)が止めているのか、もしくは、本人が避けているのだと思います。しかし、そんなことをすることにどんなメリットがあるのでしょうか。私は負の側面の方が大きいと思っています。

コロナウイルスとの向き合い方について
カントは自分で考え、判断を下すべきことを求めます。しかし、もし誤った情報にもとづいていたなら、考える方向性も、そこから導かれる結論も誤ったものとなるでしょう。コロナウイルスに関しては、私たちは分からないことだらけで、専門家同士でも言っていることがバラバラだったりします。私たちはこのような混沌とした状況下でどうしたらよいのでしょうか。

考えて行動しないことの弊害
緊急時ほど人間の本性が表れ、倫理性が問われます。このコロナ危機の状況下においても、勝手気ままに出歩いている人たちが存在します。彼らはなぜそのような行動をとってしまうのでしょうか。カントの言葉を頼りに、その原因について考えてみました。

道徳法則に従っているつもり に過ぎない可能性について
道徳法則に従っているつもりが、実際にはそうでなかったということがありうるのでしょうか。ありうるとすれば、その場合の倫理性はいかに。

続・啓蒙とは何か?
カントが啓蒙の標語に掲げるsapere audeですが、日本語では「あえて賢かれ」「知る勇気を持て」などと訳されます。しかし、本当にそれでカントの意図はくみ取れるのでしょうか。どうして賢くならなければならないのでしょうか?どうして知らなければならない、そもそも何について知らなければならないのでしょうか?謎です。

啓蒙とは何か?
普段、私たちは自分で考え、行動しているように思っているかもしれませんが、本当にそうなのでしょうか。周りに流されたり、自分の感情に流されたりしていないと(どれだけ)言えるでしょうか。

続・教育現場の抱えるジレンマ
教育という、他人(親や教師)による外的強制のなかで、どのようにして自律という自分で自分を律するための(内的強制の)力を養うことができるのでしょうか。