前々回の記事において慰安婦問題と絡めて、自由や責任について論じました。生まれ育った環境が劣悪であったならば、自由が制限されていたと言え、そのため十全に本人の責任とは言いがたいのではないか、という話をしました。
また前回の記事では、自分の人生がうまくいかないことを嘆く学生の話を紹介しました。その文脈で、本人の望み通りであっても、幸福になれる可能性もあれば、なれない可能性もある、という話をしました。
この二つの記事を貫く重要な要素があります。それは「運」です。今回の記事では、この「運」そのものにスポットライトを当てて考えてみたいと思います。とりわけ、出生にまつわる運(家の裕福さ、才能や能力、容姿、等々)についてです。
先哲の教え
出生にまつわる運の良し悪しについて、三大倫理学説(アリストテレスを祖とする徳倫理学、功利主義、義務論に立つカント)が何を言っているのか確認していきたいと思います。
アリストテレス(徳倫理学)
アリストテレスは、悪い条件で生まれた人間に対して以下のように述べています。
容姿が甚だ醜く、劣った生まれであり、また孤独で子供もいないような人は、幸福ではありえない。(アリストテレス『ニコマコス倫理学』)
このようにアリストテレスは、生まれた時点で運悪く、容姿が悪く、身分が低く、子供を持つことができないような者は幸福ではありえないと言い切っているのです。もしそれが正しいとすると、人が幸福になれるかどうかは生まれた時点で決定してしまっていることになります。
アリストテレスは、徳について「卓越性に即した魂の活動」と定義しています。そして、運も卓越性に含まれることになります。つまり、運悪く生まれた条件が悪い者は徳の目でも劣ることになってしまうのです。現代の感覚からすると承服しがたいものがあります。
「生まれた時点での不運」ということに関連して、アリストテレスの理屈では、先天的な障害を持って生まれてきてしまった場合も、その者は卓越性において、そして、徳において劣ることになります。あるアリストテレス主義者は、この種の批判があることを認め、その反論として 悪いところを見るのではなく、良い点を見るべきことを説いていますが、これは論点のすり替えの感が否めません。
功利主義
功利主義者は恵まれた人がどのように恵まれない人に手を差し伸べるかに関心を払い、恵まれない側のあり方については論じない傾向にあります。このことは間接的に、貧しい者の側の倫理的義務については論じるに値しないことが前提されていると受け止めることができるかと思います。
もし貧しい者自身が果たすべき義務について語っている功利主義者についてご存じの方がいれば、教えてください。私はひとりとして知りません。
誰か知りませんか~?
カント倫理学(義務論)
功利主義者たちが暗黙のうちに前提しているように、極貧の環境で生まれ、食べる物にも事欠くような人自身が、他者に手を差し伸べることが極めて困難であることは認めざるをえないように思えます。そのことはカント自身も指摘しているところです。
不快なこと、苦痛や欠乏は、自分の義務への違反へと導く大きな誘惑である。裕福、強靭、健康および一般に幸せなどはそうした影響力に抵抗するものであって、それゆえまた同時に義務であるところの目的と見なすことができる。つまり、自分自身の幸福を促進し、幸福をただ他の人々にのみ向けないこともまた義務であるところの義務として見なすことができるように思われる。(カント『人倫の形而上学』)
自分自身が不快な状態にあるようであれば、他者に手を差し伸べようなどという発想はなかなか出てきません。おそらくこの点でカントと功利主義者たちは発想を同じくするのですが、カントの場合は、それでも尚そんな彼らにも義務があると言うのです。
そして、その義務とは、(功利主義者のお株を奪うような主張であり)自らの幸福を確保する(間接的な)義務なのです。
その昔「カント倫理学は禁欲的」なんて言ってしまい、すんませんでした!
ただカントは、自らが苦痛を抱えている状態の者は他者に対する義務が困難であるものの、履行できないと言っているわけではありません。彼は運悪く生まれつき能力的に低い人(ここには明確には書かれていませんが、この人は自身が幸福になることも困難であるはずです)について以下のように言及しています。
とりわけ運が悪く、あるいは自然が意地悪い義母のようにごくわずかな天分しか与えなかったために、善意志にはその意図するものを実現するための能力がまったく欠けていたとしても、さらにこの意志ができるだけ努力したのにもかかわらず、何も実現できなかったとしても、あるいはこの意志が単なる願望のようなものではなく私たちが利用できるすべての手段を尽くしたにもかかわらず、何も実現されずに、ただ善意志のみが残っているような場合でも、それはあかたも宝石のように、すべての価値を自らのうちに持つものとして、光り輝くのである。(カント『人倫の形而上学の基礎づけ』)
このようにカントは、その人が生まれつき能力の面で劣っている者でも(そして、たとえ苦しい環境にあったとしても)善意志から行為するように努めることはできるはずであると信じているのです。
だからこそカントは以下のように言い切ることができるのです。
人はあることをなすべきと自覚するがゆえに、それをなしうると判断する。(カント『実践理性批判』)
繰り返しになりますが、自身が不幸な状態にあれば、倫理的なことについて考えるのは難しいと言えます。しかし、ひとたび倫理的な問いについて考え、自分がどうすべきか自覚できたのであれば、そこから必要となるのはもっぱら意志のみなのです。道徳的善のためには、能力や富や結果といった偶発的要素(運)は必ずしも必要ないのです。
私は確実にできることしか人に求めません。
さいごに
能力もない、富もない、結果を残すタイプではない私ですが、カントに言わせれば、それでも意志さえあれば、必ず道徳的善をなすことができるはずなのです。私はこの「道徳的善の扉は、万人に、そして、常に開かれている」という点に強い魅力を感じるのです。
このような考え方に私は救われました。