web counter
「結果」とは何を指すのか、功利主義者に聞く | カントに学ぶ意志の倫理学

「結果」とは何を指すのか、功利主義者に聞く

満足な豚カント倫理学

功利主義者は一般的に、結果のうちにのみ倫理的価値を認める立場と見なされています。前回の記事において、しかしながら本当に功利主義者は行為者の内面や行為に至るまでのプロセスについて一切評価の対象としないのか、という問いを発しました。

というのも、もし行為者の内面や行為に至るまでのプロセスであるところの、考慮やその内容の妥当性といったことを要件としないならば、人々を幸福にしたのであれば(つまり結果さえよければ)それが意図したものでなかったとしても、それどころか、そもそも意図する権能を有していない赤ん坊やロボットのやったことでさえ倫理的善であることになってしまうからです。

ロボットは善をなせるか?

反対に、理性的であるものの、有限的な存在である私たち人間が、人々の幸福に寄与するつもりであったものの試みが不首尾に終わった場合、無価値であることになります。それどころか、結果が悪い方に出た場合には倫理的悪を犯したことになってしまうのです。

功利主義とは本当にそのような立場なのでしょうか?

このような疑問から、功利主義に携わった当事者たちの主張を見ていきたいと思います。

古典的な功利主義者の代表のひとりであるジェレミー・ベンサムは功利主義について以下のように説明しています。

功利性の原理とは、その利益が問題になっている人々の幸福を増大させるように見えるか、それとも減少させるように見えるかの傾向によって、または同じことを別のことばで言いかえただけであるが、その幸福を促進するようにみえるか、それともその幸福に対立するように見えるかによって、すべての行為を是認し、または否認する原理を意味する。(ベンサム『道徳および立法の諸原理序説』)

ベンサムは人々の幸福を増大させる行為が善であり、減少させる行為が悪であるとは言っていません。人々の幸福を増大させるように見える傾向を持った行為が善であり、そうでない行為が悪であると言っているのです。

この「傾向」(tendency)という語は二義的に解釈可能です。ひとつは「幸福を増大させることができればできるほど」という意味です。この場合、倫理性は結果そのもののうちにあることになります。ここではこのような功利主義を結果功利主義と呼んでおこうと思います。

もうひとつ考えられるのは、「幸福を増大させる可能性が高ければ高いほど」という意味、つまり、可能性の意味で解することです。この場合、倫理性は結果そのものではなく、幸福を生み出す可能性の高い行為を選んだ時点で、その行為は倫理的に善であることになるのです。つまり、結果は伴わなかったが、倫理的善であるということがありうるのです。ここではこのような功利主義を過程功利主義と呼んでおこうと思います。

一般的には功利主義は結果功利主義として説明されることが多いと思います。しかし、先の引用文を見てもらえれば分かるように、ベンサム自身は「幸福を増大させるように見える行為」という言い方をしています。実際に幸福をもたらした行為ではなく、幸福を増大させるように見える行為をなした時点で、倫理的価値が決まる(つまり過程功利主義)と解するのが自然な解釈なのではないでしょうか。

古典的な功利主義の代表としてもうひとり、ジョン・スチュワート・ミルの功利主義についても確認しておこうと思います。彼もベンサムと似たようなことを言っています。

『功利』または『最大幸福の原理』を道徳的行為の基礎として受けいれる信条にしたがえば、行為は、幸福を増す傾向に比例して正しく、幸福の逆を生む傾向に比例して誤っている。(ミル『功利主義論』)

ミルも、幸福を増大させる行為が正しく、それを減少させる行為が誤っているとは言っておらず、幸福を増大させる傾向(tend to)に比例して正しく、減少させる傾向に比例して誤っていると表現しています。これも二義的であり、ミルがどちらを想定しているのか判然としません。

私には、ベンサムにしても、ミルにしても、結果功利主義と過程功利主義の差異について自覚していたとは思えないのです。というのも、両者のテキストには、結果功利主義的な文章と、過程功利主義的な文章の両方が散見されるためです。同じことですが、(先ほどはひとつの文章が過程功利主義的に見えるという話をしましたが)どちらかに都合の良い文面を選んで並べれば、結果功利主義的な解釈も、過程功利主義的な解釈も、実際にはどちらも可能なのです。

ひょっとすると、ベンサムもミルも、過程であるところの考慮やその中身の妥当性、そして、実際に幸福をもたらすという結果の両方を倫理的善の要件と考えていたのかもしれません。だとしたら、仮に一方しか備えていなかった場合の倫理性の有無や、倫理性が認められる場合の善性のレベル(どちらかがよりよいということがあるのかどうか)について説明する義務が生じるはずです。

ある倫理学説における倫理的善悪の基準が曖昧であれば、私たちはその理論を使って行為の倫理性について判定することができません。これは致命的な問題だと思うのですが、当事者たちはどうもそう思っていないように見受けられます。

功利主義者を自認する人に会うたびに、私は同じ質問をしているのですが、満足できる回答が得られたことがありません。もし答えられる人がいれば、コメントしてください。

タイトルとURLをコピーしました