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功利主義者は「結果」という語で何を指しているのでしょうか? | カントに学ぶ意志の倫理学

功利主義者は「結果」という語で何を指しているのでしょうか?

赤ん坊の振舞いが倫理的善である可能性カント倫理学

前回の記事において、教育現場を念頭に、子供の内面にも目を向け、評価することの大切さについて話をしました。

ただ教育現場に限らず、私が行為者の内面の重要性について言及すると、以下のようなことを言ってくる人がいます。

あなたは自分が手術してもらうときに医者がミスをしても構わないのか?それでも「大事なのは結果ではなく、その人の内面だ」と言い切れるのか?

こういうことを言ってくるのは、たいてい功利主義者です。

カントにとっての結果

誤解しないでいただきたいのですが、私は、そしてカントも、「結果はどうでもよい」などとは言っていません。カントは結果として幸福になること、そして、そのために有効であろう、権力、富、名誉、健康といったものをよく(gut)、かつ、望ましい(wünschenswert) ものであると説いているのです。

しかしながらカントは、それらよき・・、そして、望ましいものも、意志が善いものであってはじめて、よい方向に発揮されると考えるのです。そのため彼は、それらのうちに制限的なよさしか認めないのです。他方で、純粋で利他的な意味のみが、それ自体で価値があり絶対的な倫理的善と見なすのです。

この世界において、それどころかこの世界の外においてさえ、無制限に善と見なされるのは、まったく善意志のみである。(カント『基礎づけ』)

純粋で非利己的な意志から行為するのに、一部の人のみが有しているような特別な才能や、運といった偶発的要素は必要ありません。本人が「やろう」とさえすれば、それはできるのです。

他方で、結果の良し悪しというのは必ず偶発性が伴うことになります。仮に結果の良し悪しを、倫理的な良し悪しと同一視するのであれば、たまたま結果が良ければそれをもたらした行為は倫理的善であり、たまたま結果が伴わない行為は倫理的悪であることになります。これでは倫理性は結果論によって決まることになってしまいます。

功利主義とは本当に結果論なのか?

しかしながら、本当に功利主義というのは結果論なのでしょうか。私はここには別の解釈の余地もあると考えています。というのも、功利主義者が用いる「結果」という言葉は二義的に解釈可能であると思うのです。

ひとつは、結果そのものと解する可能性です。

どういうことかというと、例えば、幸福についてまったく考慮していなかったのに、結果的に人びとの幸福に(偶然)寄与するような場合があります。

具体例を挙げて説明すると、ノーベル賞を受賞した学者はよく「私は自分の知的好奇心に従ったまでだ」というようなことを言います。仮にその意図がなかったとしても、その人の研究が実際に人々の幸福に寄与したのであれば、そこに倫理的善と見なすことに、それほど抵抗はないかもしれません。

しかし反対に、ある研究が多大なる不幸をもたらした場合はどうでしょうか。例えば、アルフレット・ノーベルはダイナマイトを開発しました。彼自身は、戦争に使う意図はなかったと主張しています。仮にそれが真意であったとすれば、彼が開発したダイナマイトが多くの人の命を奪い、悲しみを生み出したことを理由として、彼の行為を倫理的悪と見なすのは酷な気がしないでしょうか。

Alfred Bernhard Nobel

もうひとつ別の例を挙げたいと思います。私の家には赤ん坊がいます。お出かけ・・・・したときなどに、その赤ん坊を見た人たちはたいてい微笑みます。だとすれば、その赤ん坊は人々を喜ばせているために倫理的善をなしていることになるのでしょうか。理性も自由意志も(ほとんど)ないであろう赤ん坊の振舞いを倫理的善と見なすというのに違和感はないでしょうか。

反対に、その赤ん坊は毎晩のように、夜泣きをします。近所の人たちにとってはいい迷惑です。だとすると、その赤ん坊は倫理的悪をなしているのでしょうか。赤ん坊の振舞いが倫理的善であると捉えるのと同様、悪であるというのも受け入れがたいものがあります。

このようなことを考えてみると、功利主義といえども、結果そのものだけではなく、行為者の内面や行為に至るまでのプロセスであるところの考慮の有無や妥当性も倫理的善のための必要条件と考えるべきなのではないでしょうか。

つまり、「結果」という語のもうひとつの解釈の可能性とは、その語を結果そのものではなく、結果への考慮と捉える可能性です。

次回予告

この点については次回の記事において、古典的功利主義者の代表格と見なされる、ジェレミー・ベンサムとジョン・スチュワート・ミルのテキストを参考に考察を加えていきます。

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