(new!) オンライン講座の受講生募集

4月26日(金)から、NHKカルチャーセンターでオンライン講座を担当します。カントや倫理学に対する事前知識があっても、なくても構いません。対話形式で進めるので、みなさんの理解度や関心にそって講座を進めていきます。

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功利主義者は「結果」という語で何を指しているのでしょうか?

Baby カント倫理学

前回の記事において、教育現場において、人の内面にも目を向け、評価することの大切さについて話をしました。もちろんのこと、人の内面に価値があることは教育現場に限ったことではありません。しかし、私が人の内面の重要性について言及すると、よく以下のような批判を投げかけてくる人がいます。

あなたは自分が手術してもらうときに医者がミスをしても構わないのか?それでも「大事なのは結果ではなく、その人の内面だ」と言い切れるのか?

こういうことを言ってくるのは、たいてい功利主義者です。

カントにとっての結果

誤解しないでいただきたいのですが、私は、そしてカントも、「結果はどうでもよい」などとは言っていません。カントは結果として幸福になること、そして、そのために有効であろう、権力、富、名誉、健康といったものをよく(gut)、かつ、望ましい(wünschenswert) ものであると説いているのです。

しかしながらカントは、それらよき・・、そして、望ましいものも、意志が善いものであってはじめて、よい方向に発揮されると考えるのです。そのため彼は、それらのうちに制限的なよさしか認めないのです。他方で、純粋で利他的な意味のみが、それ自体で価値があり絶対的な倫理的善と見なすのです。

この世界において、それどころかこの世界の外においてさえ、無制限に善と見なされるのは、まったく善意志のみである。(カント『基礎づけ』)

純粋で非利己的な意志から行為するのに、一部の人のみが有しているような特別な才能や、運といった偶発的要素は必要ありません。本人が「やろう」とさえすれば、それはできるのです。

他方で、結果の良し悪しというのは必ず偶発性が伴うことになります。仮に結果の良し悪しを、倫理的な良し悪しと同一視するのであれば、たまたま結果が良ければそれをもたらした行為は倫理的善であり、たまたま結果が伴わない行為は倫理的悪であることになります。これでは倫理性は結果論によって決まることになってしまいます。

功利主義とは本当に結果論なのか?

しかしながら、本当に功利主義というのは結果論なのでしょうか。私はここには別の解釈の余地もあると考えています。功利主義者が用いる「結果」という言葉は二義的に解釈可能であると思うのです。

可能性①「結果そのもの」

「結果」が何を指すのかということについて、まず取り上げたいのは、これを「結果そのもの」と解する可能性です。ここではこの立場を「結果功利主義」と呼ぶことにします。

具体例を挙げて説明すると、ノーベル賞を受賞した学者はよく「私は自分の知的好奇心に従ったまでだ」というようなことを言います。仮にその意図がなかったとしても、その人の研究が実際に人々の幸福に寄与したのであれば、そこに倫理的善と見なすことに、それほど抵抗はないかもしれません。

しかし反対に、ある研究が多大なる不幸をもたらした場合はどうでしょうか。例えば、アルフレット・ノーベルはダイナマイトを開発しました。彼自身は、戦争に使う意図はなかったと主張しています。仮にそれが真意であったとすれば、彼が開発したダイナマイトが多くの人の命を奪い、悲しみを生み出したことを理由として、彼の行為を倫理的悪と見なすのは酷な気がしないでしょうか。

Alfred Bernhard Nobel

もうひとつ別の例を挙げたいと思います。私の家には赤ん坊がいます。お出かけ・・・・したときなどに、その赤ん坊を見た人たちはたいてい微笑みます。だとすれば、その赤ん坊は人々を喜ばせているために倫理的善をなしていることになるのでしょうか。理性も自由意志も(ほとんど)ないであろう赤ん坊の振舞いを倫理的善と見なすというのに違和感はないでしょうか。

反対に、その赤ん坊は毎晩のように、夜泣きをします。近所の人たちにとってはいい迷惑です。だとすると、その赤ん坊は倫理的悪をなしているのでしょうか。赤ん坊の振舞いが倫理的善であると捉えるのと同様、悪であるというのも受け入れがたいものがあります。

このようなことを考えてみると、「結果そのもの」のみを倫理基準に据える「結果功利主義」の困難を認めざるをえないように思うのです。

可能性②「結果への考慮」

「結果」という語のもうひとつの解釈の可能性とは、その語を「結果そのもの」ではなく、「結果への考慮」と捉える可能性です。この場合、結果自体は伴わなくとも、結果への考慮があり、それが妥当なものであれば、そこに道徳的価値が認められることになるのです。同じことですが、結果が良くても、それが意図されたものでなければ、そこには倫理的価値が認められないことになるのです。

このような立場をここでは、結果への考慮という過程が必要条件となるために、「過程功利主義」と呼ぶことにします。

次回予告

しかし本当にこのような立場が、功利主義の創始者たちである、ジェレミー・ベンサムやジョン・スチュワート・ミルのテキストから導かれうるのでしょうか。次回の記事において考察を加えていきたいと思います。