カントは、道徳法則を導出するための判断が(少なくとも主観的には)誤りである可能性を排除します。必然的に、誤謬を犯したがために道徳的価値が認められない可能性も排除されることになります。
もう少し砕けた言い方をすると、よいことをしようとしたものの、その際の判断が誤っていたために、道徳的価値が認められない可能性というのはないのです。例えば、相手を手助けするつもりが、逆に迷惑をかけてしまったような場合です。同じことですが、そのような(判断力の欠如といった)能力的な落ち度が道徳的落ち度に直結するようなことはないのです。
カントに言わせれば、人は良心を欠く可能性も、良心が誤謬を犯す可能性もないのです。
非良心的ということは、良心の欠如ではなく、良心の判断を気にかけていないという性癖である。(カント『人倫の形而上学』)
すなわち、誤れる良心などといったものは存在しないというを、ここにはっきり述べておきたい。(カント『人倫の形而上学』)
そしてそのため、カントのなかでは誤謬のために道徳的価値が認められない可能性も当然のように排除されているのです。
その人が良心に従って行為したことを自覚している以上、その人からもはや負い目の有無について要求されることはない。(カント『人倫の形而上学』)
良心がないということも、良心が誤るということも起こりえないのであり、そのため、ある人が良心から行為したのであれば(その自覚があるのであれば)その行為は道徳的に正しいのです(道徳的負い目となることはないのです)。
私自身は正論であり、またすばらしい考え方であると思うのですが、このようなカントの考え方に疑義を呈する人たちがいます(その筆頭はショーペンハウアーですが、彼の批判内容はあまりに頓珍漢なので、ここでは取り上げません。興味がある人は、自分で読んでみてください)。
話を本題に元します。
カントは、自分で考えて、自分で判断を下すことの重要性を説きますが、その裏返しとして、そこに他者が介在する必要性はありません。この点を念頭に、一人で考え、一人で判断を下すとなると、判断を誤る可能性があるのではないかという批判があるのです。
問題提起
現在、2021年の東京オリンピックの開催について、中止論と開催論があり、双方が相手方が良心を欠いていると罵ったり、その誤りを指摘したりする姿が見られます。今回はこのやり取りについて感じたことを書いてみたいと思います。
オリンピック反対派から
まずはオリンピック反対派の人たちの意見を見ていきたいと思います。
彼らのなかの一部が、ツイッター上で、選手自身に出場辞退を求めるという出来事がありました。彼らは、オリンピックは中止した方がよいと信じて、つまり、良かれと思ってやっている可能性もあるのではないでしょうか。
発言のなかには、選手に対して「良心があるのか!」と問いただすようなものもあります。つまり「俺にはあるけど、お前はどうなんだ」と迫っているわけです。
と・こ・ろ・が、選手に辞退を求めるツイートの出どころを分析してみると、選手に辞退を促す発言した人たちのアカウントの多くが匿名の上、プロフィール欄は空白、フォロワー数が10以下であることが明らかになりました。
つまり、極一部の人たちが、自分の身分が分からないようにして、複数のサブアカウントからツイートやリツイートをしていたことが判明したのです。
先ほど私は、ツイッター上で選手に対して「良心」をかざして辞退を迫る行為について紹介しましたが、自分の素性を明かさず、あたかも大勢の人の発言であるかのように装い、偽装している時点で、そこに良心があったとは考えにくいのではないでしょうか。
オリンピック賛成派から
この問題(良心は誤りうるか)は、オリンピック推進派とも絡めて論じることができます。というか、「オリンピック」と「良心の暴走」のキーワードで検索すると、むしろこっちの方(つまり推進派の暴走の方)がたくさんヒットします。
その意味するところは、主に政治家や企業(スポンサー)を念頭に、「オリンピックはよいものである」と前提し、良心からその遂行に努める人々がいるということです。
しかし、そこに「良心」があるのか、これもまたかなり疑わしいと私は思っています。
私自身、企業には良心から動いてほしいと願っています。しかし現実には、そういった企業は極めて少ないのではないでしょうか。オリンピックのスポンサーをやるくらいの大企業に、そんな企業があるとは思えません。
また、政治家も本来は良心から行動すべき存在のはずですが、やはり現実には稀有だと言えます。少なくともオリンピックに関わっている人たちを見ている限りは、良心といったものはまったく見えてこないのです。そして、見えてこない理由も、はっきりしています。彼らが国民にしっかりと説明できていないためです。そのため、根拠が見えてこないためです。
カントは良心から、そして、道徳法則から行為するためには、その拠り所となる根拠がなければならないことを説いています。
自分の理性を用いるということは、私たちの〔自身がどうするべきかに関する〕仮説について、次のことを自分自身に問うことに他ならない。つまり、私たちの仮説の根拠、あるいは、私たちの仮説から帰結する規則を、その理性使用の普遍的原則とすることができるかどうかを自分自身に問うことである。(カント「思考の方向を定めるとはいかなることか」)
先ほど、良心には「自分の考えの正しさの確信」が必要であることについて触れましたが、そのためには「根拠」が必要となるという言い方ができるかと思います。そして、もし根拠があるのであれば、それを説明できるはずなのです。
もっとも、その根拠を示したところで、実際にそれで他者を納得させられるかどうかは別問題です。ここで重要なことは、(実際に納得させられるかどうかではなく)本人が根拠を持って信じていることが窺えるかどうかなのです。会見する姿を見ていても、抽象的で同じ言葉を繰り返すばかりで、自分の言葉で話しているようには見えない。答弁を聞いていても、役人に助け船を出してもらってばかりで、本当に実態を分かっているようには見えない。これでは「根拠」だの「正しさへの確信」だのといったものを持っているとは思えないのです。
結論
オリンピックを潰したくて暴走する人間は、例えば、冷静さを失い、見境がつかなくなってしまっているのではないでしょうか。
反対に、オリンピックを実施したいがために暴走する人間は、例えば、それによって自分たちに利益(金)が生じるから、もしくは、政治家の場合は、周りに促されるまま、党の方針などから、半ば盲目的に、自分で考える余地も与えらないまま、そして、本人もそのことに疑問を感じる余裕もないままにそうなってしまっているのではないでしょうか。
いずれにしろ、そういうことであるならば、そこに良心などないことは明らかです。オリンピックの話に限らず、私は「良心が暴走する」などということは起こりえないと思っています。