カント自身は自身の考えについてどれだけ理解していたのか

「分かる」「分からない」の線引きカント倫理学

前回の記事では、理性と感性、大人と子供、男と女など、厳密には線引きできないものなど世の中にはいくらでもあること、それでも私たちはそういった「ラベル」を現に使用していること、また、そうせざるをえないことについて話をしました。

「分かる」と「分からない」

先に挙げたもの以外にも、厳格な線引きができないものは、いくらでも存在します。そのひとつが今回の記事のテーマであり、それは「分かる」と「分からない」です。そして、その問題を掘り下げていくと、そこからまたさまざまな線引き困難なものが見えてくることになります。

他人の考えが分からないことがあるというのは、自明すぎており、私に指摘されるまでもないと思います。ここで私が取り上げたいのは、そうではなく、自分の考えですらよく分かっていないことがあるということです。みなさんには「何であんなことを言ったんだろう?」「なんであんなことしたんだろ?」といった経験がないでしょか。私はあります。カントにだってあると考えるのが自然なのではないでしょうか。

なぜカントの言葉は分かりにくいのか

高名なカント研究者であるノーマン・ケンプ・スミスなどは、カント自身が『純粋理性批判』のために長期間書き溜めていたメモ書きのようなものを短期間の間に並べたものであるため、一貫性がないのも無理からぬこととしています。

スミスが念頭に置いているのは『純粋理性批判』ですが、同じ困難は他のテキストに見られます。例えば、「かつて語ったことがあるが・・・」と書かれているが、カントのテキストのどこを見てもそんな記述は見つけられないとか、「まず」と書いてあるが、どこが「次に」なのか分からない(忘れられている?)とか、「以上三つが」と書かれているが、どの三つを指すのか分からない(どう解釈しても不整合をきたす)とか、そんな箇所がごまんとあるのです。

もっと言えば、私たちが目にしているテキストは編者が編集したものなのです。この時点ですでに意味が通りやすくなるように手が施されているのです。それでも実際のところ、記述は辻褄の合わないことだらけなのです。

「本当に理解していたのなら、こんな書き方にならないだろ」というのが私の正直な感想です。

さまざまな原因(として考えられること)

カントの文章の意味がとりにくい原因としてスミスは技術的な側面を指摘していますが、私はもっと根本的な問題があるのではないかと思っています。具体例をひとつ挙げると、カントが結論ありきで、理屈を後付けしている、または、そもそも理屈をまともに説明していない点です。

ではさらに、その結論がどこから来ているのでしょうか。中島義道は、カント倫理学はすべからく「個人的好み」から来ていると指摘しています。

私自身、カントの言葉であっても、それが彼の倫理学の理論から導かれることなのか、もしくは個人的な好みから導かれているのかについて、精査すべきであることについて述べたことがあります。

カントの考えと私の考えの間の整合性について
カントが「〇〇することは倫理的義務である」と言ったら本当にそれは義務なのでしょうか。反対に、彼が「〇〇することは義務に反する」と言ったら、本当にそれは義務に反するのでしょうか。もしそうだとしたら、私たちは考える必要などなく、カントに盲目的に従っていればいいことになります。本当にそれでいいのでしょうか。

例えばカントは、ひとりで食事するべきでないとか、何人で食事した方がよいといったことを言っています。個人的には余計なお世話だとは思いますが、しかし倫理とは直接関係のない話であり、そう割り切れば、目くじら立てることでもないのかもしれません。 

問題なのは、個人的好みに近いのですが、むしろ、その原因を形作っている時代的な背景です。これも以前記事にしたことがあります。例えば、カントの人種差別的な言明です。

カントと人種差別
カントの時代には人種差別が悪いことであるという意識は希薄でした。カント自身にもほとんどありませんでした。そんなカントの思想から人種差別に関して、今の私たちが学ぶことなどあるのでしょうか。

カントが活躍していた時代には、法的に奴隷制度が認められていました。そして、人々の心の根深いところに、人種による偏見が存していました。カント自身、黒人やアメリカ先住民や南方の島々に暮らす人々に対して上から目線の言動をしていますが、それはカント倫理学の体系とはまったく関係のない、時代的制約のために生まれた産物と見るべきでしょう。

また、時代的な制約のうちでも、カントがそれを正しいこととして(自覚的にまた無自覚的に)信じていたのか、それとも、そうでないことを分かった上で、しかしながら従わざるをえなかったのか、という点にも留意する必要があります。

人種差別に関しては、カントは若い頃には無頓着であったものの、年を重ねるごとに倫理的な問題として意識していっているように見えます。対照的に、彼にとって一貫して倫理的な問題として意識されなかった問題の実例として、食肉が挙げられます。カントが活躍していた頃には動物を殺して食べることが倫理的な問題になりうるという発想がそもそもありませんでした。そして、カントの言動からもそれを倫理的問題と捉えていた形跡がまったく見られないのです。

他方で、倫理的問題として自覚しながらも、自分の立場を表明するわけにいかなかったテーマもあります。国や教会の立場に反するような帰結をもたらすテーマです。もっとも象徴的な例は自殺の問題です。カントは自殺の倫理的許容可能性を否定した論者として語られることがあります。確かに彼は自身のテキストのうちでは自殺について否定的な言葉を並べています。しかし、国や教会の目が届かない(届きにくい)講義のなかでは、自殺に対して肯定的に語っているのです。晩年の『人倫の形而上学』を見ても、自殺が倫理的に許容される可能性について吟味している箇所がありますが、カントはあえて自らの立場を明らかにしていません。意図的に避けているように見えるのです。彼は、自殺を肯定するわけにはいかない立場にいたのであり、私たちはそのことを頭に入れて彼のテキストに対峙すべきなのです。

分類

ここまの話をまとめておきたいと思います。

カントのテキストを読む際には、ある立場に対して、まず①それが理論的に導かれるものなのか、それとも、②それとは無関係に導かれているものなのか吟味する必要があります。

後者の場合、②-①それがカントの趣味・嗜好によるものなのか、または、②-②時代背景に制約されたものなのか意識すべきことになります。先に挙げた例と絡めると、食事の話は②-①に、差別の話は②-②に分類されることになります。

加えて②-②の場合、②-②-①時代の制約から本心からその妥当性を信じていたのか、もしくは、②-②-②国家や教会の目を気にして、その立場をとらざるをえなかった可能性も考えられます。前者は食肉の問題、後者は自殺の問題が当てはまると言えるでしょう。

図にすると以下のようになります。

カントの頭の中

②に関しては、どれもカント倫理学の理論、つまり、普遍化の思考実験(定言命法)を中心とした理論体系とはまったく関係のない事柄と言えます(たとえカント自身は関係のあるかのような言い方をしていても、実際には論証はうまくいっていないのです)。

まとめ

今回の記事は、厳密には線引きできないものなど世の中にはいくらでもあるという話から入りました。先に図で分類を示しましたが、当然のことながらこれにも当てはまることになります(先の例で言えば、差別的な姿勢には自覚的であったのか、無自覚的であったのか一概には言い切れません)。

それでも、白黒つけることができないことを認めた上で、大まかにでもどこに分類されるのか考えながら読むことによって、よりクリアに理解できると私は思っています。同じことですが、そうすることによって、カントの論証が成功しているところと、そうでないところ、そして、その原因について、よりはっきりと見えてくるのです。

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