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人の性格について | カントに学ぶ意志の倫理学

人の性格について

安重根カント倫理学

前回の記事において、愛や同情心の倫理的な位置づけについて論じました。カントという人は、人間が自然に抱えるような愛や同情心といった感情を有することや、それに従う行為に倫理的価値を認めるようなことはしません。なぜなら、そういった感情は「持とう」と思ったからといって、持てるようなものではないからです。

今回の記事も引き続き、自分ではどうすることもできない側面について話をしたいと思います。それは、人の性格という側面です。

アリストテレスはある種の性格に倫理的善を見出します。彼の挙げている例をここに紹介すると、臆病でもなく、無鉄砲でもなく、勇敢こそが中庸の徳であり、倫理的善なのです。

しかし私は思うのです。

勇敢になるためには具体的にどうすればいいのでしょうか?努力してなれるものなのでしょうか?

 

正直、何をしたらいいのか私には見当もつきません。

そもそも、ある行為が勇敢かどうかはどのように決まるのでしょうか。さすがに自分で決めるということはないと思います。ということは、他人が決めるということなのでしょうか。

しかし、同一の行為であっても、考え方や立場によって評価というのはまったく変わってきます。例えば、多くの韓国人にとって(日本人なのに韓国統監時代には朝鮮半島の統治権を掌握していた)伊藤博文を暗殺した安重根の行為は勇敢と見なされるでしょうが、日本人のなかで(日韓併合反対派であり、そのときはすでに公職になく一般市民であった伊藤を殺害した)安の行為を勇敢と見なす人はほとんどいないと思います。

また、同じ行為でも、(その行為自体には関係のない偶発的な)その後の出来事によって評価が180度変わってしまうようなこともあります。例えば、戦争で勝った側の面々は勇敢に列せられ、負けた方の面々は無鉄砲や臆病者のレッテルを貼られる傾向があります。前者で言えば、シャルル・ド・ゴール、後者で言えば、山本五十六などはその典型と言えるのではないでしょうか(私は山本は無鉄砲でも、臆病者でもないと思いますが、軍人としての判断力には大いに疑問符が付くと思っています)。

私はある人が勇敢であるかということは極めて相対的、恣意的な評価でしかないと捉えています。

勇敢に似た例を挙げると、冷淡でもなく、お節介でもなく、優しいことは、アリストテレスによれば倫理的徳であることになると思います。

しかし、私はよく自問するのですが、「優しい」っていったいどういうことでしょうか?相手が喜ぶことをすればそれが優しのでしょうか。それが下心からであってもでしょうか。それとも下心が露見しなければ優しく、それがばれたら優しくないということになるのでしょうか。もう訳が分かりません。

もっとも、相手への感情移入がうまくできたり、気が利いたりすれば、「優しい」という評価を得やすいと言えるかもしれません。他方で、私のように、鈍感な人間は、「優しい」と思われることは稀であり、それだけ倫理的徳に劣ることになるのです。

では、私はどうすればいいのかというと、どうすることもできないのです。何が優しさなのか私には分かりませんし、そのため、優しさを磨くこともできないのです。

私はある人から、「お前は能力的に低いから、卓越性を倫理的善とみなすアリストテレス的な考え方に賛同できずに、反対に、内面を評価するカント的な立場に親近感を持つのだろう」と言われたことがあります(言い方はここまでストレートではありませんでしたが、内容的にはそういうことだと理解しました)。私は否定しませんでしたし、今でも指摘の通りだと思っています。

ただ、その裏返しとして、私が疑問に思うのは、アリストテレス主義者は、自分自身は十分な卓越性を備えていると思っているのでしょうか。それとも、サディスティックに自分の至らなさを責め続けるのでしょうか。もしくは、理論と実践が乖離していて、何も気にならないのか…。

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