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突発的な行為の倫理性について | カントに学ぶ意志の倫理学

突発的な行為の倫理性について

突発的行為の倫理的位置づけカント倫理学

前回と前々回の記事において、ある科学者が人類に貢献する業績を残したとしても、それが自身の主観的な知的欲求のみにもとづく行為であったならば、カントはそこに倫理的価値を認めないという話をしました。

カントという人は、人間が自然に抱く感情にそのまま従ったような行為に倫理的価値を認めないのです。自分の知的好奇心を満たすために研究に打ち込むというのはその一例であり、それ以外にも一般的には望ましいものと見なされるような感情、例えば、同情心といったものもそこに含まれることになります。

愛するという義務は存在しない。(カント『人倫の形而上学』)

同情心から親切を施すという義務もありえない。(カント『人倫の形而上学』)

私が倫理学の授業でこのような話をすると、不満を口にする学生がいます。とりわけ女性に多い気がします。例えば、「私は困っている人を見ると放っておけない性格で、自然と手を差し伸べてしまう。カントの理屈だと、そこに倫理的価値がないことになってしまうなんて、そんなの受け入れられない」といった具合です。

でも私は思うのです。

そういう言い方をしている時点で、倫理的な正しさという「見返り」や「お墨付き」を期待していないですか?

もしそういったものを期待しているのであれば、倫理的価値が認められないのは当然なのではないでしょうか。

(そこに特殊な意味を持たせれば別ですが、普通の意味では)愛や同情心というものは感情に属します。愛そうとしたからといって人を愛せるようになるわけではありませんし、そう努めたからといって同情心が湧いてくるわけでもありません自分ではどうすることもできないある種の感情を抱くことや、そういった感情に流されることが倫理的義務になるということはありえないのです。

カントに言わせれば、自分がその人を好きかどうか、同情心を抱いているかに関わりなく、それどころか自分が好きではない人に対しても、その人が困っているようであれば、自分が何をすべきか(またはすべきでないか)理性的に考えるべきなのです。もし理性が、困っている人に手を差し伸べるべきことを導きだしたのであれば、そうすべきなのです。難なく自然とできるような行為にではなく、重い腰を上げて行為するところに、倫理的な価値が見出されるのです。

ここまでの話は受け入れるのにそれほど困難は伴わないと思います。では、以下のようなケースはどうでしょうか。

特に夏場に、海や川で溺れている子供を救うために 大人が飛び込んで亡くなってしまうというニュースが流れます。そういったニュースに触れる度に、私の胸は熱くなります。しかし、もし、子供を助けようとした人が理性的な考慮を欠き、単に衝動的に動いたのであれば、そこには倫理的価値はないことになるのです。倫理的善は、理性に発する意志、より具体的には非利己的で純粋な善意志のうちにあるというテーゼを貫徹するのであれば、他者のために命を落とす行為ですら、それが理性に発していない以上、意志に発しているということもなく、そのためそこに倫理的善性が介在する可能性はないのです。

みなさんはこのような帰結にどう思われますか。

「そりゃそうだ!」と思われますか?それとも「そりゃおかしい!」と思われますか?

根拠を添えて感想がもらえるとうれしいです。

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