(new!) オンライン講座の受講生募集

4月26日(金)から、NHKカルチャーセンターでオンライン講座を担当します。カントや倫理学に対する事前知識があっても、なくても構いません。対話形式で進めるので、みなさんの理解度や関心にそって講座を進めていきます。

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はたして結果至上主義と教育は両立するのでしょうか

カント倫理学

一言で「よしあし」といっても、結果についての良し悪し、卓説性における良し悪し、道徳性の善し悪し等々、さまざまな観点があります。同じ「よしあし」ですが、本来まったく別物の事柄を問題にしているのであり、そのため、それらの「よさ比べ」をすることはカテゴリーミステイクを犯すことになり、慎むべきと言えます。

五打席連続敬遠の是非

分かりやすい例をひとつ、ここのところスポーツ、とりわけ野球を例に話をしてきたので、今回も野球に関連する例を挙げます。1992年に甲子園で当時高校生だった星稜の松井秀喜選手が明徳義塾戦で五打席連続敬遠された末に敗退したという出来事がありました。その極端な作戦を巡って賛成派・反対派に分かれて、社会全体を巻き込む議論となりました。

賛成意見としては以下のようなものがありました。

・目的は勝つことであって勝つために最善の作戦を執っただけ

・結果的に試合に勝ったのだから、作戦として正しい

反対側としては以下のようなものがありました。

・行き過ぎた勝利至上主義

・教育の場にふさわしくない

・どうしても勝ちたい大人のエゴ

賛成意見・反対意見、両方に抑えるべき点がいくつかあります。

論点

論点を以下に整理してまとめておきます。

論点一 何についての「よさ」を問題にしているのか

これは冒頭で指摘した点ですが、五打席連続敬遠の是非についての議論を見ていると、同一の問題について論じているように見えて、その実、それぞれの論者が別のよさを念頭に置いており、そのため議論が嚙み合わないということがありました。これは1992年からずいぶんと経った2017年のことですが、埼玉県の高校の監督を対象としてアンケートがなされました。

松井秀喜への5打席連続敬遠はあり? 151人の監督が出した答えは...【甲子園】
1992年夏の甲子園、松井秀喜選手への5打席連続敬遠は、日本中で論争を呼んだ。

記事を読んでいただければ分かりますが、その設問の問いが、5打席連続敬遠について「あり」か「なし」かについて答えるものだったのです。

しかし、このような問いの立て方では、何のよしあしを問うているのか分かりません。ある人は、勝つための作戦としての是非を問うているものとして、別の人は教育的に是認できるものかどうかを問うていると受け取るといったことが起きてしまうのです。私に言わせれば、問いの立て方からして間違っているのであり、そのため本来答えようがないのです。

論点二 結果が伴ったことは思考過程まで正しかったことを意味しない

この点については前回の記事において詳説しました。

思考過程の正しさについて
思考過程の正しさは、そこからもたらされた結果によって判定されるべきではなく、思考内容自体によって良し悪しが判断されるべきなのです。しかし、現実にはそうなっていません。オリンピックスポーツ、とりわけ野球を例にして、その問題点を明らかにしたいと思います。

五打席連続敬遠の賛成論のなかには「結果的に試合に勝ったのだから、作戦としては正しい」といった意見もありました。そう発言する者は「結果」という観点に焦点を当てているのです。しかしながら「結果がついてきたから「作戦」として正しかった」という言明のうちには飛躍があります。というのも、確率の高い作戦を執ったのに結果が伴わないこともあれば、反対に、確率の低い作戦で結果が伴ってしまうこともあるからです。作戦の是非は作戦事態の妥当性によって判断されるべきであり、偶発性が伴う結果によって決まるようなものではないのです。

論点三 そこに本当にエゴ(利己心)があったのか

反対論のひとつに「どうしても勝ちたい大人のエゴ」といったものがありました。この点についても前回の記事において野球と絡めて、また、その少し前にも、殺人鬼の動機ですら、本人の言葉に耳を傾けずに、決めつけるべきではないことについて論じました。

思考過程の正しさについて
思考過程の正しさは、そこからもたらされた結果によって判定されるべきではなく、思考内容自体によって良し悪しが判断されるべきなのです。しかし、現実にはそうなっていません。オリンピックスポーツ、とりわけ野球を例にして、その問題点を明らかにしたいと思います。
殺人すら責任が問えないケースについて
カントは、意志の介在しない行為に、道徳的善も悪もないと説きます。どんな凶悪犯罪を犯してもそうなのでしょうか。反対に、何人助けてもそうなのでしょうか。改めて考えてみたいと思います。

つまり、本当にそこにエゴがあったのかどうかを決めつける前に、五打席連続敬遠の指示を出した明徳義塾高校野球部監督の馬淵監督の言葉に耳を傾けるべきなのです。

社会的に大きな反響のあった出来事であったために、(幸いにも)馬淵氏自身のインタビューや元選手たちの証言が結構残っており、そこから馬淵監督の内面を垣間見ることができます。

例えば彼は、若い頃は監督業を自己満足でやっていたことを告白しています。

今考えればあの頃は遠回りしてたね。指導者の自己満足でやってた面があった(中村計『甲子園が割れた日』)

本人がどうしても勝ちたかった、そのために敬遠の指示を出したと取れなくもありませんが、「あの頃」というのは必ずしも敬遠の指示を出したタイミングを指しているわけではなく、両者(エゴと敬遠)を結びつけるのは拙速のような気もします。

殺人鬼に対してさえ、道徳的悪であると決めつけるのではなく、内面に目を向けるべきことを説いた記事においても触れましたが、人の内面というのは十全には分からないのであり、仮にどこかでそう発言していたとしても、それが真意である確証などなく、馬淵監督の指示が自らが勝ちたいがためのエゴに起因しているのかどうかについて、どこまで掘り下げても決めつけることはできないのです(ただ「〇〇の根拠から、〇〇の可能性が高い」ということくらいは言ってもいいと思います)。

四 結果至上主義は本当に教育と相いれないのか

私自身は馬淵監督がどのような思考過程を経て、あのような采配に至ったのか関心があるので、自分なりに情報収集はしたつもりです。その限りで私が気になったのは、「教育的観点」という視点がまったく見えてこない点です。

勝利至上主義は教育とは相性が悪いように思えるかもしれません。しかし、両者は本当に水と油なのでしょうか。教育理念として勝利至上主義を掲げるということはありえないことなのでしょうか。私自身はありえないとまでは言い切れないと思っています。ただ、馬淵監督の発言を追っても、そういった理念なり、哲学を持っていたようには見えないのです。実際、馬淵監督は自分で、勝つことと教育の間にジレンマを抱えている(つまり、自分でもどうしていいのか分かっていない)ことを認めています。

むしろ見えてくるのは、教育という視点の希薄さです。元選手の一人は、監督から「黒いカラスを見ても、監督が「あれは白だ」と言ったらそう信じろ」ということを言われていた発言しています。またジャーナリストの中村計氏も、そのことは明徳義塾の練習風景を一度でも見れば容易に想像できることを認め、そのような環境を宗教団体の教祖と信者の関係に見られるような「カルト」と表現しています。

本来教育とは、生徒が学校を卒業してからも、糧となるような力を身に着けさせる場所であるはずです。人に言われたことを無批判に受け入れる人間を大量に生み出すようなやり方が将来本当にその人のためになるかという話です。

まとめ

(相手が好意的であるにもかかわらず)ジャーナリストやメディアに対する姿勢を見ていると、どうも馬淵監督は敬遠事件の話題に限らず、そもそも自分の考えについて公にすることを避けている、もっと言えば、嫌っているように見えます。しかし、もし自分に教育理念があり、それに則ってやっているというのであれば、それを広く伝えるように努めるべきだと思います。せっかく名前が売れており、影響力があるのですから。