オンライン講座のお知らせ

2025年1月10日よりNHKカルチャーセンターにおいて「カントの教育学」をテーマに講座を持ちます。いつも通り、対話形式で進めていくつもりです。とはいえ参加者の方の顔が出るわけではありませんし、発言を強制することもないので、気軽に参加してください。
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何が彼や彼女を駆り立てたのか

Why go to college カント倫理学

大学入学共通テストが行われた日に、それにまつわる2つの大きな事件がありました。ひとつは東大医学部を目指していた高校生(以下A)が東大前で人々を切りつけた事件であり、もうひとつは仮面浪人していた女子学生であり浪人生(以下B)が大学入学共通テストでカンニングしようとしてそれが発覚した事件です。

これらに関して考える際、さまざな切り口が可能だと思います。例えば、「その悪性はどのようなものなのか?」「その責任はどの程度のものなのか?」「彼らを生み出してしまった社会的責任は?」等々。

そんななかでも私がここで取り上げたい問いは「何が彼らを駆り立てたのか」という点です。その根幹に何があったのでしょうか。それが明らかになることによって、すでに起きてしまった「それを避けるためにはどうすればよかったのか?」という点について、そして、今後に向けて「これから私たちがそうならないために何ができるのか?」という生産的な話ができるのではないでしょうか。

何が彼らを駆り立てたのか?

Aは東大医学を出て医者になることが、Bは都内のある有名私大に行くことが自分の幸せに不可欠な要素であると捉えていたのでしょう。しかし実際には何が自身の幸福に資するかなどということは自分でも分からないはずなのです。そのことをカントは以下のように指摘しています。

〔何が自身の幸福に資するかについて〕理由と反対理由とのややこしい縺れから脱出して損得の差し引き勘定を誤らないためには頭が良くなければならない。これに対して、何がこの場合に義務であるのかについて自問するならば、これに対して惑うことはなく、自分が何をすべきかについて立ちどころに確認することができるはずなのである。(カント「理論と実践」)

ここでカントが言いたいことは、「何が倫理的義務であるか?」ということは誰もが立ちどころに分かるはずであるという点であり、「何が自身の幸福に資するか?」ということはなかなか分からないという主張は言わばダシとして使われているに過ぎません。ただ、そのことは言明の妥当性を何ら損なうものではないはずです。

誤解のないように断っておきますと、東大の医学部に入れるくらい、また有名私大に入れるくらい頭が良ければ何が自身の幸福に資するか分かるようになるということではありません。実際にはどんなに頭が良くてもそんなもの分かるわけがないのです。この点についてカントは以下のように述べています。

もっとも洞察力にとみ、同時に極めて万能であったとしても、やはり有限な存在者が自身が本来欲しているところのもの〔=幸福〕の明確な概念を形作ることは不可能である。彼がそれを欲するとすれば、そのために彼はどれだけ多くの心配、嫉妬、および執着などによって煩わされることであろうか。(カント『基礎づけ』)

カントの挙げる例を用いると、ある人が長寿こそが自身の幸福に資すると考え、励むとします。そして、それが実現できたとします。それでも、それがために苦しい病気や人い災難を背負い込むことになるかもしれません。未来は見通せない以上、何が幸福につながるかなどということは私たちには決して分からないのです。

むしろそのようにして理性の能力を超えた越権行為を犯してしまことは、自分で自分の人生を窮屈で、苦しいものにしてしまうことになるのです。つまり、本来は自身の幸福を求めていたはずなのに結果的にはそれに逆行することをしているという皮肉な結果を招くのです。

それを避けるためにはどうすればよかったのか?

カントは例として、名誉、権力、金銭といった主観的な欲望から目標を掲げる人々について以下のように述べています。

そのような人間は自分自身で己の目的を(客観的に)設定したものと思い込んでいるのである。妄想というこの傾向性は、その場合、空想が自分の創造者であるから、とりわけその傾向性が人間の競争に向けられた場合、この上ないほどに燃えたぎることになるのである。(カント『人間学』)

私は彼らの事件を耳にしたときに、まっさきにカントのこの箇所の文面が思い浮かんだのです。あまりにも的確に言いえているためです。

しかしここで、「誰もが欲望を持っているものであり、その欲望を満たすための行為が悪いというのは言い過ぎ、厳しすぎるのではないか」という声が上がるかもしれません。

それはそのとおりで、誰もが欲望を持っており、そこから目的を立てること自体は倫理的非難の対象にはなりません。そうではなく、行き過ぎた欲望から道徳法則を犯してしまうことが倫理的非難の対象となるのです。

自然に湧いてくる類の自己愛は、それ自体として見れば良いものである。言い換えれば、排斥されないものである。そしてそれを根絶しようとすることは、ただ無益であるばかりか、有害で批判されるべきことですらある。〔中略〕道徳的に反法則的なものがそれ自身として悪なのであり、絶対に排斥されるべき、根絶されるべきもなのである。(カント『宗教論』)

「東大医学部を出て医者になりたい」「〇〇大学に入りたい」ということ自体は悪いことではありません。むしろやりたいことがあるのは望ましいことと言えるでしょう。しかし、あまりに強い欲望を抱えて競争に参加すると、欲望が駆り立てられ、自分でも歯止めが利かなくなり、道徳法則に反する振舞いをしてしまうのです。

これから私たちがそうならないために

では、そうならないためには、どうしたらいいのでしょうか。

我欲という熱をもった感情に流されるのではなく、立ち止まって自分の欲求から距離を置いて冷静に理性的に考えてみるのです。具体的にどのように考えるのかというと、先ほども触れましたが、それが本当に自身の幸福につながるのか、不法を犯してまでそれをなすことが本当に自身の幸福に不可欠の要素なのか考えてみるのです。少なくとも私には競争でしか得られることなく、かつ、自身の人生に必須のものなど想像することすらできません。もし誰か「私にはある」と言う人がいれば、それがどんなものなのかぜひ教えてください。

私自身カントについて知る前はしばしば冷静さを失い、なんだかよく分からないものを追い求めるようなこともありました。今でも油断をするとそうなってしまいそうなときもあります。そんなときはカントの言葉を思い出して、客観的な視点に立って自身を見つめ直してみるのです。すると自分の欲望が顔を出そうとしていたことに気がつき、はっとすることがあるのです。