続・続・みんながそれをやったらどうなる?

論理的矛盾とはカント倫理学

まずはこれまで話の復習からはじめたいと思います。

前回までのあらすじ

カント倫理学を研究している者の多くが、純粋な形式的な手続きのみから具体的行為の禁止を導けると主張します。彼らは例えば以下のような説明を展開するのです。

「私は約束を破る」という行為原理が普遍化された世界というのは、誰も約束を守らない世界ということになります。誰も約束を守らない世界では、そもそも誰も約束を結ぼうとしないはずです。そこでは「私は約束を破る」という行為原理を順守することが不可能になるのです。このことは、この行為原理は倫理的に許容できないものであることを意味するのです。

このような説明に納得できるでしょうか?できる人は少ないのではないでしょうか。ではどこがおかしいのでしょうか?

禁止すべきものが禁止できない

前回の記事では、普遍化の思考実験を純粋な形式的手続きとして理解すると、本来禁止すべきでない行為まで禁止されてしまうという話をしました。今回は反対に、本来は倫理的に許されない行為原理であるにもかかわらず、純粋な形式的手続きのみからは排除できない行為原理があるという話をしたいと思います。

今現在、コロナウィルスが猛威を振るっています。日本も本来は自粛要請が出ているのですが、大勢で集まってイベントをしたり、花見をしたりする人がいて、そのことが問題視されています。

しかし、普遍化の思考実験を純粋な形式的な手続きとして運用すると、「私はイベントに参加する」「私は花見に行く」という行為原理は普遍化したところで、何の論理的不整合も生じないのです。つまり、自分の好き勝手に動き回っている人間がいても、何の問題もないことになってしまうのです。このようなおかしな帰結の原因は、「コロナウィルスが猛威を振るっている」という経験的(実質的)な側面を無視してしまっている点にあると言えます。

他方で、現在のコロナウィルスが猛威を振るっている状況に鑑みて、みんながイベントに参加したり、花見に行ったりすることが、望ましいことであるかどうか吟味した場合には、それが望ましいことではないことは容易に想像がつくはずです。

それゆえ、普遍化の思考実験は、たったひとつだけであり、それは次のようなものである。「汝が、普遍的法則となることを欲する行為原理に従ってのみ行為せよ」(カント『人倫の形而上学の基礎づけ』)

汝が欲することができるかどうかというのは、考慮する人間の主観的な判断が問われているのです。ただ、主観的な視点のみが問われているのではなく同時に客観的な視点に立ち、万人にとって欲せられる(望まれる)ものであるかどうかも同時に問われているのです。

そこでは当然、自分の置かれた状況という経験的(実質的)な側面も考慮に入れられることになります。コロナウィルスが猛威を振るっている状況下では、みんなが自分の好き勝手に歩き回ることは行為原理として普遍化を意欲することはできないでしょう。そうであれば、自分だけを例外視するのではなく、そのような行為原理は自分自身も避けるべきなのです。

記事の冒頭に、「私は約束を破る」という行為原理を例に、それが必ず倫理的悪であると決めつけてしまうことのおかしさについて指摘しましたが、困難の所在は同じところにあります。確かに一般的には約束を破ることは好ましいことではありませんが、より重要な義務がある場合、例えば、行き倒れになっている人を目にしたならば、些細な約束を反故にしてでも、その人を助けるべきでしょう。自分の置かれた状況という経験的(実質)側面を無視してしまうと、現実との齟齬をきたしてしまうのです

まとめ

三回に渡って、普遍化の思考実験を純粋な形式的手続きとして理解し、行為者の置かれた状況(実質)を無視して特定の行為の禁止を導いてしまうことの問題点について論じてきました。ここで困難の所在についてまとめておきたいと思います。

前々回の記事において指摘したことですが、ある特定の行為が禁止されるべきものとしてしまうと、例えば「自殺はダメ」とか「嘘はダメ」とか、そして、その判断を誰もが従わなければならない「正解」としてしまうと、別の人が誤謬を犯す可能性が出てきてしまいます。そして、正解を導くことができれば倫理的善の道が開け、その判断を誤ると倫理的悪を犯してしまうことになるのです。

このような理解のもとでは、倫理性は正しい判断が下せるかどうかという能力的な側面に還元されることになってしまいます。そして、意志のあり方は付随的な役割しか担わないことになります。もはや「意志の倫理学」とは言い難いでしょう。

みんながそれをやったらどうなる?
「みんなが君と同じことをしたら困ったことになるだろ」「君がその行為をするのはみんながしないことを前提にしているんだ(君は自分を例外視しているのだ)」ということを言う人がいます。しかし私は思うのです。だからなに?

前回の記事では、常識的倫理観からは受け入れられるであろう行為原理、例えば「私は看守になる」が普遍化の際に論理的不整合をきたしてしまうことがある点を指摘しました。しかし、このような行為原理を採用することは倫理的悪であると言われても承服しがたいと思います。

なかには私に対して「君は誤解している」「君の挙げる例が悪いんだよ(だからおかしな帰結が導かれるんだよ)」などと言う人がいるかもしれません。確かに、私自身が何か勘違いをしている可能性は私自身では排除することはできません。しかし、そのような私の能力的な落ち度で、倫理的善がなせなかったり、ときには悪を犯してしまうなんてことがあってはならないと思うのです。

それに関連して、私にはカントの言う「論理的不整合」がどのようなことを指しているのかもよく分かりません(これも私がアホだからかもしれません)。私にはカント自身の説明がその都度ブレてしまっているように見えるのです。そのため、普遍化によって論理的不整合が生じるのかどうかについて、しばしば判断がつかないのです。例えば、前回の記事に紹介した、「私は授業中に一番前の席に座る」というような行為原理です。

カント自身は、(何が自身の幸福に資するのかの判断は非常に難しい問であるものの、他方で)倫理的に何をすべきかということは誰もが容易に導くことができるはずであることを繰り返しています(倫理的善のためには一部の人のみが有する、また、偶発性の伴う才能や能力の有無や程度といった要素は必要ではないとすると、このことは当然の帰結と言えます)。

誠実であり、善良であるためには、それどころか、さらに賢明であり有徳であるためには、そのために、何をしなければならないのかということを知るのに、学問や哲学など必要としないのである。(カント『人倫の形而上学の基礎づけ』)

理由と反対理由とのややこしい縺れから脱出して、損得の差引勘定を誤らないためには、頭が良くなければならない。これに反して、何がこの場合に倫理的義務であるかについて自問するならば、彼はこの問いに対する答えをいささかも煩うことなく、すなわち、自分が何をなさなければならないかについて立ちどころに確認することができるのである。(カント「理論と実践」)

普遍化の思考実験を純粋な形式的手続きとして理解すると、(少なくとも私は)いかなる行為原理が普遍化の際に論理的不整合をもたらすかということについて、しばしば判断がつきません。とすると、カントが至るところで繰り返す、「倫理的に何をすべきであるかは誰にとっても明らかである」という言明と整合性が取れなくなってしまうのではないでしょうか。

続・みんながそれをやったらどうなる?
多くのカント倫理学研究者が、純粋な形式的な手続きのみから規範(具体的行為の禁止や命令)が導けると主張します。しかし、本当にそんなことが可能なのでしょうか。その是非について吟味してみたいと思います。

最後に今回の記事では、前回の記事とは反対に、明らかに戒められるべき行為原理が許容されてしまうケースが多々あることについて指摘しました。純粋な形式のみを扱うということは、純粋数学や論理学のような記号のみを扱うということを意味します。そのような手続きから、実質的なこの世界において、私たちが何をしてはならないかという命題が導けるはずがないのです。

この記事を読んだ上で、それでもなお「単なる純粋な形式的手続きから具体的な行為の禁止が導ける!」と主張できる方(カント研究者)がいましたら、ぜひご連絡ください。

このように言っておきながら自分で言うのも何ですが、おそらく誰も何も言ってこないと思います。なぜでしょうかねぇ。

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