オンライン講座のお知らせ

2025年1月10日よりNHKカルチャーセンターにおいて「カントの教育学」をテーマに講座を持ちます。いつも通り、対話形式で進めていくつもりです。とはいえ参加者の方の顔が出るわけではありませんし、発言を強制することもないので、気軽に参加してください。
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私たちは自分でも知らず知らずのうちに道徳的悪を犯しているのでしょうか?

カント倫理学

カントに対して事前知識がある人が、私の新刊『いまを生きるカント倫理学』を読むと、ところどころ引っかかるところがあると思います。新書というのは、一般向けに書くものなので、あまり深い説明はできません。「もっと説明がほしい」という人のために、本サイトで補足説明をしていくことにします。

前回はその第一弾として、一般的には形式的な記号操作によって道徳法則を導くことができると解釈されているものの、私はその立場をとらないこと、そして、その根拠について説明しました。 

今回はその第二弾ということになります。カントによれば、私たちは道徳的悪ばかり犯している、それも、自らが気づかないうちに犯しているという解釈が支配的です。しかし、私は自著において、それに真っ向から反する説明をしました。道徳的悪というのは必ず自覚的なものであると説いたのです。今回の記事では、私がそう言える根拠についてお話したいと思います。

根本悪について

カントは、行為原理の根拠を腐敗される悪として根本悪という概念を想定しています。カント自身はその悪性について「動機を自らの格率に採用する際に、その道徳的秩序を転倒すること」(VI 36)と説明しています。根本悪が格率に関わるものであることが分かります。

そして、この格率というのは、これまたカント自身によって「自らの自由を使用するために自己自身に設ける規則」(VI 21)または、「自分で選び取った〔もの〕」(XV 521)と表現されています。格率を無意識的に設けるものと受け取るには無理があると思います。

根本悪とは格率に関わるのであり、その格率が自覚的なものであるとすると、根本悪と無自覚的な行為を結びつけることはできないはずです。

さらにダメ押しすると、カントは悪の性癖の段階として、「本性の弱さ」「心情の不純さ」「心情の悪性」を挙げており、最初の二つに関しては故意ではなく、最後の第三段階だけが根本悪であり、「故意の罪責」(VI 38)としています。根本悪が意図的なものである(自覚なく根本悪を犯すということはない)点に異論の余地はないと思います。

一般的な道徳的悪について

道徳的悪には必ず自覚が伴うことが読み取れるカント自身の文章を引用しておきます。

ある人間を悪と呼ぶには、若干の、いや、ただひとつの意識的な悪しき行為から、その根底にある悪しき格率がさらにこの悪しき格率から、主観のうちに普遍的に存しているところの、それ自身、また格率である個々の道徳的に悪しき格率のすべてのものの根拠が、アプリオリに推論されなければならない。『単なる理性の限界内の宗教』

分かりにくい文章ですが、道徳的悪のうちには、意識的な行為であり、その根底にある悪しき格率であり、そして、その悪しき格率の根拠があることが語られているのです。格率自体が、すでに自覚なものであることは、すでに述べたとおりです。

こちらの方が分かりやすいので、高名なカント倫理学研究者であるオトフリート・ヘッフェの言葉も付しておきます。

無条件的に道徳的に善い行為は善い格率に、そして、道徳的に悪い行為は悪しき格率に起因する。 そこでの動機というのは、前者に関しては道徳法則に対する意識的な尊重であり、後者に関しては同様に意識的な離反なのである。(Höffe 『Kants Kritik der praktischen Vernunft』)〔傍線は筆者による強調〕

 左がヘッフェ教授

カントのテキストに当たる限り、道徳的善のみならず、道徳的悪もまた、必ず意識的になされるものであって、自分でも知らない間になしていたということはありえないのです。

それでもなお無意識的に道徳的悪を犯す可能性について探る

ここまでの説明で、十分理解していただけると思うのですが、それでもあえてさらに彫り下げて、自らが知らない間に道徳的悪を犯すということは、いったいいかなることなのか考えてみたいと思います。

自己愛から行為することが道徳的悪であるということになるのでしょうか。いや、それはありえないでしょう。

『いまを生きるカント倫理学』においても引用しましたが、カント自身が、道徳性が問われる状況においてのみ、自身の幸福について考慮に入れるべきではないことについて説いているからです。(Vgl. V 93)同様の文面は「理論と実践」においても見られます。(Vgl. VII 278)カントは関連して具体的に飲み食いの際の行為の取捨選択を挙げています。(Vgl. VI 409)私たちの日常生活で行っている判断のほとんどは道徳性が問われるようなものではなく、その限り道徳的悪に陥りようがないのです。

それでもなお、道徳性が問われる状況においてであれば、傾向性から振舞った場合に、道徳的悪であるという解釈が成り立つ可能性が残されています。ここで「たとえ無自覚であったとしても」という条件を付してもよいかと思います。例えば、寄付という道徳性が問われる行為をしていながら、それが自己愛からなしていることに無自覚であるような場合です。

このような解釈の問題点は、人助けなどの道徳法則に合致する、いわゆる適法的な行為の多くが道徳的悪であることになり、だったらはじめから道徳に関心を持たず、人助けなどしないほうが道徳的悪に陥らないだけマシという結論に至ってしまう点です。つまり、(自らの利己性に無自覚なまま)寄付する人よりも、(同じく、自らの利己性に無自覚なまま)寄付しない人の方が道徳的に優れていることになってしまうのです。

中島義道氏が以下のように言う場合、そのことを念頭に置いているのかもしれません。

人間は、みずからより完全になろうと刻苦精励を望み他人に親切にすればするほど、必然的に悪に陥る。(中島義道『悪について』)

このようか帰結は、そもそも常識的倫理感に合致しません。たとえ利己的な理由があっても困っている人に手を差し伸べるべきと考えるはずです。行為者が自身の利己性に無自覚であるとしたらなおさらです。

さいごに

すでに述べたように、そもそもカント自身の言葉から、このような解釈は導かれえないのであり、仮にそのような解釈を認めてしまうと、非常に不合理な事態を招いてしまうのです。なぜカント自身の言葉を無視してまで、このような非合理的な結論を導く必要があるのか、私には分かりません。