おそらくみんなそうだろうと思います。本というのは自分で書きながら、読み手からどんな疑問や批判が出るだろうか思いを巡らせながら書き進めます。そのような予想される疑問や批判に対して、そもそも言及するか、言及するのであればどこまで掘り下げるか、といったことに頭を悩ませるのです。
ただ私が先ごろ出版した『いまを生きるカント倫理学』は新書だったので、かなり自重せざるをえませんでした。話の腰を折るような深い議論は極力しませんでした。そこで今回、何回かに分けて、いくつかの疑問や批判が出そうな論点について、このブログ上で取り上げて説明することにします。
今回はタイトルから分かるように、本当に純粋な形式的記号操作によって道徳法則が導けるのか、ということについてです。また、ここから必然的に派生することとして、本当に道徳法則の導出に「正解」「不正解」があるのか、という問いにも対峙することになります。
多くのカント研究者が考えること
カント研究者として名の知れた中島義道は、多くのカント研究者が道徳法則についてどのように捉えているかについて以下のように述べています。
多くのカント倫理学を研究している者が、カントにおける道徳法則とは純粋な形式であると真顔で主張しているが、純粋な形式から倫理学が打ち立てられるはずがない。(中島義道『カントの「悪」論』)
道徳法則が純粋な形式であるということは、数学や論理学のように、記号操作によって導くことができるということです。つまり、ここには(まさに数学や論理学の計算のごとく)「正解」「不正解」が存在するということです。彼らは具体的には、自殺や虚言は不正解である、つまり不可避的に道徳的悪であると言うのです。
カント研究者ではない一般の人たちは、この時点で「はい?」「何を言っているの?」となると思います。
カント研究者たちはカントの言葉に忠実だかこそ、カントに囚われ、浮世離れした主張に陥っているのだと思われるかもしれませんが、その実、そうでもないのです。カントの立場に鑑みても、実はこんな変な帰結が導かれるはずがないのです。カント自身の以下の言葉を見れば明らかです。
あらゆる可能な行為について、それが正しいか、正しくないかを知ることは必ずしも絶対に必要なことではない。(『単なる理性の限界内の宗教』)
カントは、道徳判断に「正解」を前提し、それを道徳的善の必要条件とすることを明確に否定しているのです。この辺りの話は、前回・前々回において触れた「理性の限界」についての話と関わってくることになります。そもそも「正解」なるものがこの世に存在するのかどうかも分かりませんし、仮にあったとしても、そんなもの有限な能力しか持たない私たちには知りえないのであり、それを知らないことが道徳的善の足かせになることもないのです。
では、何が道徳的善の必要条件となるのかというと、「確信」です。自分が正しく判断したことへの「確信」です。カントは先の引用文に続けて以下のように述べるのです。
私がなそうとしている行為は、私はそれが不正でないことを判断し、思念しなければならないだけでなく、それをまた確信もしなければならない。(『単なる理性の限界内の宗教』)
ここで誤解してほしくないのは、単に「自分が正しいと思ったことが正しい」と、主観内に閉じた正しさについて説かれているということではないということです。あくまで、「普遍化の思考実験」によって、客観的な視点に立ち考えた上での、主観的確信について語られているのです。これはまさに主観と客観のどちらだけではない、両者の融合を図った上での正しさなのです。
そのような手続きを踏んだ判断が、客観的には誤っているように見えたとしても、主観的に誤っているということは起こりえないのです。
あることが義務であるかないかという客観的判断においては、確かにしばしば誤ることがありうる。しかしながら、私がそのことをあの客観的判断のために私の実践的(ここでは、裁く)理性と比較したかどうかという主観的判断においては、私は誤りようがない。(『人倫の形而上学』)
つまり、カント倫理学の枠内では、客観的判断として誤っており、それが理由で道徳的価値が認められないという可能性は排除されているのです。
純粋な形式による記号操作のみによって道徳法則を導くことを説くような解釈は、常識的な感覚から言っても、カント倫理学の骨格部分との整合性に鑑みても、成り立ちようがないのです。ここまでの説明で十分と思われるかもしれませんが、新書ではできなかった話をもう少しさせて頂きたいと思います。
思考停止でよいのか?
カントが、自らの頭で考えることを求める論者であることを否定する人はいないと思います。
しかし、もし数学や論理学で行われるような記号操作によって、道徳判断の「正解」が導けるのであれば、私たちひとりひとりがそれについて考える必要などなくなるはずなのです。
誰かが(それが誰なのか?という疑問が生じますが、その問いはとりあえず置いておいて)、「正解」をどこかみんなの見えるところに書いておけばよいのです。そうすれば、ひとりひとりが考え、判断して、間違えるリスクをなくすことができます。はじめから賢い人の判断に従っていればいいのです。
するとここで、カント主義者たちは「いや、仮に「正解」が明らかであったとしても、それでも、その上で自分の頭で考えてみることが重要なのだ」と言い出すのです。
では、その「正解」と自分の判断がどうしても合わない場合はどうなるのでしょうか。
納得できなくても「正解」の方を優先しなければならないのでしょうか。しかし、これでは自分の頭で考えることを求める意味が見いだせません。どのみち否定されてしまうのですから。
もしくは、納得できないのであるから、自分の考えを優先すべきなのでしょうか。この場合、「不正解」を選択し、行為しているのですから、道徳的には悪ということになります。これではカントが道徳的悪を推奨しているように見えてしまいます。それでいいのかという話です。
能力的に劣る者は道徳的善をなすことが困難となる
道徳判断に「正解」があると仮定し、かつ、それが道徳的善の必要条件であると前提すると、そこにたどり着けない、つまり、能力的に劣る者は、道徳的善をなすことができない、少なく見積もっても、できることもあるかもしれないが、非常に困難であることになるのです。私のように能力的に劣る人間などは、全然ダメである(道徳的悪ばかりなしている)ことになるのです。
意志などどうでもよい
この説明から分かるように、このような解釈の下では、道徳性は道徳判断が正しく行われたかどうかにかかっていることになります。もしその判断を誤ったのであれば、その時点でその者は道徳的悪を犯したことになるのです。意志のあり方など関係ない、どうでもいいことになってしまうのです。
道徳基準のダブルスタンダード(矛盾)
カントが一方で、「道徳性は意志次第」と言いながら、他方で「道徳性は正しく判断できるかどうか次第」と言うものなら、そして、その住み分けについて明らかにしないのであれば、この二つの言明はどう見ても矛盾しています。矛盾しているものは履行することができません。妥当性云々以前の問題と言えます。
さいごに
純粋な形式的な記号操作によって道徳法則が導くことができる、それによって例えば自殺や虚言の道徳的許容可能性が否定されるというようなカント研究のなかでは支配的な解釈が、単に常識的倫理感に乖離しているのみならず、カント倫理学の骨格部分と照らし合わせても、成り立ちえない理由を列挙しました。
異論のある人(カント研究者しかいないでしょう)がいるようでしたら、私と同じ土俵に立って、その内容を多くの人が見える形で、できれば一般向けの本にその内容を書いてほしいと思います。お互い「カント倫理学はすばらしい」と受け止めているのであれば、ぜひ一緒に盛り上げていきましょう。