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人は本当に利他的に振舞うことなどできるのか | カントに学ぶ意志の倫理学

利他的に振舞うことなど本当にできるのか

カント倫理学の効力は如何にカント倫理学

いきなりですが、質問です。

人は利他的に振舞うことができると思いますか?

私はおそらく毎学期、学生にこの質問をしていると思います。

統計をとったわけではありませんが、エポケー(=判断保留)を除くと、意見はだいたい半々に別れます。

ただ、もし利他的な行為の可能性を認めないとすると、利己性を排除した純粋な善意志からの行為の可能性も認めないことにつながります。つまり、彼らは、カントの説く倫理的善の姿に賛同できないと言っているも等しいことになるのです。

では、なぜ彼らは利他的行為の可能性を認めないのでしょうか。その言い分を聞いてみると、もっとも多いのは、「私は利他的に振舞うことなどできない(だから他者もできないはずだ)」というものです。しかし、自分が利他的に振舞えないことは、他人も利他的に振舞えないことを意味しません。例えば、同性愛者ではない人は同性を好きにはなりませんが、そのことは同性愛者がいないことの論拠にならないのです。

似たような発言として、「利他的に振舞える人がいるなんて想像もできない」というものがあります。こちらも自分の感覚が中心であり、その感覚から逸脱しているので、想像できないということであり、基本的には上の立場と根は同じと言えます。その人には想像できないかもしれませんが、そのことは、その想像できないことが現実に起こりえないことの論拠にならないのです。例えば、同性を好きになるなんて想像もできないと思っても、そのことは同性愛者がないことの論拠にならないのです。

先の質問は本来、一人でも、そして、一度でも利他的に振舞ったことがあることを告白する人が出てくれば、反対の立場は反証されることになります。例えば、白いカラスが存在するかどうかの議論は、一羽でも白いカラスの存在が確認されれば本来、決着するのです。

しかし、実際にゼミで、誰かが「私は利他的に行為したことがある」と発言しても、議論はまず収束しません。たいてい反対側の誰かが「いや、それは君の思い込みに過ぎない」とか、「いや、自分でも知りえない深層心理において」などと言って、食い下がるのです。

ここで話は、まさに前回の記事で紹介したショーペンハウアーのカント批判に結びつくことになります。つまり、カントは非利己的な善意志からの行為のうちにのみ倫理的価値を認めるのですが、ショーペンハウアーは「人が、カントが倫理的価値を認める(非利己的である)義務から行為しているつもりであっても、実際には自分でも気がつかないうちに利己心が入り込んでいるはずである(だとすれば、カントの言う倫理的善も成り立たないであろう)」といった批判を展開するのです。

もしこのような批判が正鵠を射ているとすると、人は何をすべきか分かっており、倫理的善をなすつもりであっても、そこに意図せず利己心が紛れ込んでしまい、結果的に倫理的善を仕損ねる可能性があることになります。つまり、カントが繰り返し説く、そして、本ブログでも紹介したことのある、「当為(すべき)は可能(できる)を含む」というテーゼが成り立たなくなるのです。カント倫理学は途端に不安定なものとなります。

ショーペンハウアーの非難はカントの死後になされたものであり、(幸い?)カントは知る由もありませんでした。ただ似たような批判はカントの生前からありました。そして、そういった批判に対してカントは論文「理論では正しいかもしれないが、実践においては役に立たないという通説について」(以下「理論と実践」)において反論しているのです。

まず、論文「理論と実践」の執筆目的について、カントは以下のように述べています。

こうして私は、この論文で究明しようとしている本来の論点――哲学において、理論と実践とが矛盾すると称せられているところの事柄を実例によって検討し、決してそうではない所以を証明すべき点に到達した。(カント「理論と実践」)

カントは理論と実践が一致すべきと考えていたことが明確に記されています。そして、それは、カントが自らの倫理学説(理論)は実践と一致すべきものであると考えていたことを意味するはずです。

ではカントは、「自分の動機ですら知りえないのでは?」「そのため(たとえ純粋な善意志から行為したつもりであっても)自分が利己的に行為した可能性を自分でも排除することができないのではないか?」といった批判に対して、具体的にどのような反論を展開しているのでしょうか。

前置きが少々長くなってしまい、このまま本題に入ると五千字を超えてしまいそうな勢いなので、カントの具体的な反論内容については次回に回したいと思います。

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