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耐性を欠く倫理学説ってどうなの | カントに学ぶ意志の倫理学

耐性を欠く倫理学説ってどうなの

現実への適用に耐えられない理論が学問の名に値するのかカント倫理学

前回の記事では、倫理学を含めた学問一般が公理の上に成り立っているという話をしました。

今回は改めて、学問一般に必要な要件について考えてみたいと思います。

ひとつ具体的な問いを発してみたいと思います。

現実への適用に一切耐えられない理論が学問の名に値するのでしょうか?

カントは、理論と実践の結びつきについて論じた「理論と実践」という論文において、現実が理論通りにいかないケースがあること、そして、その理由について以下のように述べています。

それは理論がまだ不完全であって、これを補足するには恐らく今後の実験や経験を俟ってはじめて可能であるというような場合である。そして、かかる実験や経験から新しい規則を引き出して理論を完成しうるのである。(カント「理論と実践」)

現実が理論通りにいかない場合があったとしても、実験や経験によってその理論を補強することを通じて現実への適用に耐えられるようにしうること、そして、そう努めるべきことが説かれているのです。

カントは加えて、理論と実践が一致しないもうひとつの可能性についても言及しています。

だからこのような〔経験を重んじる医師や農業経営者や官公使などが現実と理論の不一致に遭遇したような〕場合には、理論が実践にほとんど役に立たなかったのは、理論そのものに責めがあったのではなく、その理論だけでは十分でなかったのである。(カント「理論と実践」)

ある理論に欠陥がなくても、その理論だけでは不十分であるような場合があります。そのような場合、理論自体に責があるわけではなく、不首尾の原因は、不十分な理論を用いた者の判断力のうちにあるのです。

ところで理論と実践との間には、たとえ理論がいかに完全であったとしても、両者を結びつけて一方から他方への移り行きを可能ならしめる中間項を必要とすることは言うまでもない。悟性概念は規則を含むのであるが、この悟性概念には判断力の働きが加わらなければならないからである。(カント「理論と実践」)

カントのうちに一貫して流れているのは、学問上の理論は実践に耐えうるべきであり、また、耐えうるはずであるという信念なのです。そして、その理論と実践の中間項として働くのが、私たちの判断力なのです。

ここで改めて、学問一般から、倫理学に焦点を当てて考えてみたいと思います。人の生き方について論じておきながら、多くの人が納得できるようなものではなく、そのため誰も則ることのないような理論は欠陥を抱えていることになります。その場合、実験や経験から理論を補強することができます。また、それによって理論自体は有効なものになったとしても、それだけでは不十分であるということもありえます。そうであるならば、別の理論によって補うことができるのです。

カントは道徳における理論と実践の結びつきについて以下のように述べています。

道徳においては、理論にとって正しいことは、すべて実践にも当てはまらなければならない。(カント「理論と実践」)

倫理学の理論というのは、正しいながらも、現実に適用に耐えられないという言い分は成り立たないのです。適用に耐えられないということは、その理論は正しくない、少なくともその理論だけでは十分でないことを意味しているのです。

倫理についてその正しさを説く者は、必ず実践が伴うのであり、そうでなければならないのです。

〔倫理に関わる事柄においては〕何人といえども例外なく一個の実務家(Geschäftsmann)なのである。(カント「理論と実践」)

日本語の「実務家」という言葉もそうですが、ドイツ語のGeschäftsmannという用語も、理論のみに拘泥するのではなく、それを実践に結びつける人というニュアンスがあります。倫理について何か言うからには行動が伴っていなければ、つまり、実務家でなければならないのです。

理論と実践が一致すべきことを説くカントの姿勢はとても歯切れがよいと言えます。ただ、歯切れがよすぎて、逆に、「本当にそう断言できるのかな?」という疑問が湧いてこないでもありません…。

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