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健康でいられるように努める義務について | カントに学ぶ意志の倫理学

健康でいられるように努める義務について

カント倫理学

「皆勤」という言葉があります。広辞苑では以下のように定義されています。

一定の期間内、休日以外に1日も欠かさず出席・出勤すること。(『広辞苑』)

私は小学校高学年のときに皆勤賞をもらいました。そのときにこの「皆勤賞」という言葉を覚えたのです。学校で褒められることなどほとんどなかった私は「これなら自分でもできる」「これからも皆勤賞を取れるようにがんばろう」と思ったのでした。

その後、私は中学生になり、中学校でも三年間、一日も休まず学校に通い続けました。卒業のときに皆勤賞の人の名前が呼ばれ表彰されたのですが、そこに私の名前はありませんでした。私は先生に欠席していないはずであることを訴えたのですが、先生は「皆勤賞というのは一度も欠席も遅刻もしなかった者がもらえるものであり、君は一度だけ遅刻したことがあるよ」と言うのです。私はどうして遅刻したのかもよく覚えていません。そんなことで皆勤賞をもらえなくなるなどとは思ってもいなかったのです。

私は先生に辞書の定義を見せて、抗議しましたが、受け入れられるはずもありません。皆勤賞を励みに三年間頑張った純粋で初心な・・・・・・中学生の私がひどく落胆したことは言うまでもありません。

自身の健康を保つように努めることは倫理的義務たりうる

前回の記事では自分の健康を保つよう努めることは倫理的義務たりうるという話をしました。ここで言う「倫理的」とは、二つのレベルに分けることができます。今回はその点を掘り下げてみたいと思います。

倫理的価値を持つ直接義務

前回の記事において、カント自身が痛風患者は自身の健康のために食事制限をすべき倫理的義務があることについて論じていることを紹介しました。

ただ食事制限をすること自体に倫理的価値があるわけではありません。「幸福になりたい」「(そのため)健康になりたい」という自分の都合が動因になっているのであれば、そこに倫理的価値を認めることはできません。

あらゆる利己的な感情を抜きに、もっぱら義務にもとづいて行為するとする。そのときにこそ、はじめてその行為は真正の道徳的価値を持つのである。(カント『人倫の形而上学の基礎づけ』)

「義務にもとづいて行為する」とは、自身の都合によってではなく、それが倫理的義務であるために、それを理由として行為するということです。そのような非利己的な意志(善意志によって食事制限をすることができたときに、はじめて倫理的善性が見い出されるのです。

しかしながら、それが至難の業であることは言うまでもありません。人間とは概して利己的な存在であるためです(だからこそ、利己的な感情に抗って行為できたときに、比類なき価値をそこに見出すことができるのです)。

加えて、仮に自分が健康を害しているようであれば、健康であることの重要性をよりいっそう自覚し、健康になりたいと切に願うはずです。つまり、自分自身が弱っているような状態では、ただでさえ困難な倫理的善の履行が、さらに難しくなるのです。

このあたりがカント倫理学が「あまりに厳しすぎる」「(そのため)そんなことできるはずない」といった批判を浴びる原因となっているのですが、違うのです。カント自身もそれは厳しすぎであり、実現困難であることは十分自覚しているのです。そのため彼は、そのような状態に陥らないようにすべきことを説くのです。

そのために私たちは具体的にどのようにすべきなのかというと、間接義務の履行に努めるのです。それは間接的に倫理的善に資するために、間接義務と呼ばれるのです。

倫理的善に資する間接義務

間接義務についてもすでに本ブログにおいて何度か言及しているので、関心がある方は「間接義務」というキーワードでブログ内検索をかけてみてください。いくつも記事がヒットするはずです。または、私の著作『意志の倫理学 カントに学ぶ善への勇気』の第二部、第六節から第八節を参照してください。

カント自身が間接義務の具体例として、自身の幸福の確保、良心や同情心や感謝の念の涵養を挙げています。それらが間接義務である理由は、その不足は悪への誘惑となり、それを備えていることが倫理的善へのきっかけとなるためです。

以下の文面の主眼は、自身の幸福の確保が間接義務となりうることにあるのですが、付随的に健康についても触れられています。

不快なこと、苦痛や欠如は、自分の義務へと導く大きな誘惑である。裕福、強壮、健康、および一般に幸せなどは、そうした影響力に対抗するものであって、それゆえまた同時に義務であるところの目的として見なすことができるように思われる。〔中略〕しかしながら、その場合には、幸福が目的なのではなく、主体の道徳性こそが目的であり、そして、この主体から障害を取り除くことがが単に許された手段であるに過ぎないのである。〔中略〕自分自身のために裕福を求めるということは直接的には義務ではないが、間接義務には十分義務でありうるであろう。(カント『人倫の形而上学』)

カントのこのような文面の根底には、自身が不幸であれば倫理的な事柄に関心を寄せ、そして実際に行動に移すことは困難であるという考えがあるのです。そのような状態に陥らないように、自身の幸福を確保する間接的な義務が存在するのです。そして、自身の幸福の確保のためには、自身が健康であることが重要な要素となることが説かれているのです。私たちは自身の健康を保つべき、間接的な義務があるのです。

ただ、間接義務の履行の際、行為主体の目的は自身の幸福であってはならず、あくまで道徳性でなければならないのです。具体的には、道徳的善への障害を取り除き、道徳的善への下地を整えるものでなければならないのです(道徳的善そのものが目的であるわけではありません。ここに直接義務との差異が存するのです)。

まとめ

カント的には、同じ自身の健康を確保するよう努める行為でも、その動機によって評価はまったく変わってくるのです。

自身の健康を保つように努める行為が、道徳性を念頭に置いたものである場合(道徳的悪への障害を取り除き、道徳的善への下地を整える目的を持ったものである場合)、それは間接義務の履行と見なすことができるのです。

他方で、同じ行為が非利己的な純粋な善意志に発するものである場合(道徳的善そのもののみを目的とした場合)に直接義務の履行と見なされ、そこに道徳的価値を認めることができるのです。

ちなみに、そのような倫理的考察を経ないまま健康を保つように努める行為、例えば、冒頭に書いた子供の頃の私の行為などは、道徳法則に発するわではないものの、道徳法則に適合する行為、すなわち、道徳性(Moralität)はないものの、適法性(Legalität)を備えた行為ということになるのです(適法性と道徳性の差異についてはこちらを参照)。

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