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他者の内面は知りえない

他者の内面を知りえないカント倫理学

以前、自転車泥棒に間違えられて、不快な思いをした話をしたことがあります。

自転車泥棒に間違えられた話
私は先日、自転車泥棒と間違われました。なぜそんなことになってしまったのでしょうか。私はどうするべきだったのでしょうか。相手はどうするべきだったのでしょうか。いろいろと考えてみました。

今回も自転車にまつわる話なのですが、以前とは逆に、いい気分になった話をしたいと思います。

先日の出来事

私は自分の自転車に乗ろうとして鍵を外しました。そのとき、隣に止まっているバイクに鍵が当たってしまいました。

すると間髪を入れずに、どこからか声が聞こえてきました。

おい、君!

秋元
秋元

あれ、私に声かけているのかな?

顔を上げてみると、目の前にある家の窓から男の人が顔を出して、どう見ても私の方を見ているではありませんか。私に声をかけていることは明らかでした。

秋元
秋元

鍵がバイクに当たったことに気づいて、持ち主が文句を言ってきたのか?本当は止めてはいけないところに自転車を止めてしまい、そのことを言われるのか?ああ、とにかく嫌な気しかしない・・・

結論から言うと、私の考えていたこととまったく別の反応が返ってきました。

私がバイクを止めたときに、君の自転車にぶつかってしまい、自転車を倒してしまったので、もし不具合が見つかったら、弁償するので、伝えてちょ。

私は文句を言われるかと思っていたので、ホッとしました。

秋元
秋元

ああ、わざわざ伝えてくれてありがとう

私はうれしく、また、すがすがしい気持ちになりました。

カント的な説明

彼は私の自転車を倒すというミスを犯したものの、そのまま知らん顔していれば、誰にも気づかれなかったはずなのです。しかし彼は、弁償を迫られる可能性を背負い込んでまで、わざわざ自分のミスを申告してきたのです。彼の行為は間違いなく道徳法則に適った行為と言えます。

ただ、それは必ずしも道徳的に善なる行為を意味しません。カントは、道徳法則に適った(合法則性を備えた)行為と、動機が道徳法則に発する(道徳的)行為の差異について以下のように説明します。

行為の動機を無視した、行為と法則の単なる一致、不一致は、適法性(合法則性)と呼ばれる。しかしながら、そこにおいて法則に由来する義務の理念が同時に行為の動機であるような行為と法則との一致は、行為の道徳性(人倫性)と呼ばれる。(カント『人倫の形而上学』)

行為者が、道徳法則に合致した行為を、それが道徳法則であることを理由に(つまり非利己的な理由から)なしたときに、はじめて道徳的価値が認められるのです。

彼の行為が道徳的善なるものであった可能性は十分にあると思います。ただ、そうでなかった可能性も排除することができません。自分から名乗り出ても、一見したところ何の見返りもなさそうに思えるかもしれませんが、例えば、罪悪感から解放されたかったため、または、いい格好しいことをして自己満足を得たかったためといった動機が横たわっていた可能性も考えられるためです。もしその行為が自分の都合によってなされていたとすれば、そこに道徳的価値を認めることはできないことになります。

カント自身が挙げている例をひとつ紹介しますと、商人が買い物に不慣れな客をだましたりしないことは道徳法則に合致する行為と言えます。道徳法則に発した、道徳的行為とまでは言い切れません。なぜなら、買い物に不慣れな客を騙したことがばれて、誰も買いに来なくなるといったマイナスの影響を恐れての行為かもしれないからです。だとすれば、動機は利己的なものであり、そのため道徳的価値は認められないのです。

理解しやすく、また受け入れやすい説明であり例えだと思うのですが、いかがでしょうか。

まとめ

私たちは他人の内面について十全的に知ることはできません。そうである以上、道徳性についても判定することはできないのです。

ただ、私がここで伝えたいことは、自転車を倒してしまったことを申し出てきた人は道徳的価値がないかもしれないということではなく、彼は紛れもなく道徳法則に適った行為をしたのであり、それ自体が合法則性という観点において称賛に値するということなのです。

ところで、後から運転してみて気がついたのですが、ハンドルが少し歪んでしまっていました・・・。

でも、いいんです。その歪みを自覚する度に、私は彼の道徳法則に適った行為を思い出せるので、これでいいんです。

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