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マルクス・ガブリエルについて | カントに学ぶ意志の倫理学

マルクス・ガブリエルについて

Demonstration Black Lives Matterカント倫理学

現在、大手の出版社から、応用倫理学としてのカント倫理学についての新書を出す準備を進めています。その出版社からその人物の著作が出ていること、また、世間的にも名が売れていることから、マルクス・ガブリエルの書いた本に目を通すように担当の方に言われました。そこで勧められた本を読んでみたのですが、突っ込みどころが多すぎて絶句しました。今ちょうど学生のレポートを採点しているのですが、学生がこの内容を書いてきたら私は「不可」を出します。

ガブリエルのカント倫理学理解

ガブリエルは、「カント道徳哲学は自死への呼びかけ」と表現しています。これはどういうことなのでしょうか。読み進めていくと、どうやら「人は自分の個人性を捨てなければならない」ということのようです。

しかし、すると今度は「では「個人性を捨てる」というのはどういうことなのか?」という疑問が生じます。これはどうやら「完璧な道徳的な存在になる」ことを指しているようです。ところが、それが成就した途端、「もはや人間ではなくなる」というのです。

分かりにくさがありますが、ここまではいいと思います。カントは完全に道徳的な存在になることなど想定していませんし、そのため求めてもいません。その通りだと思います。問題はその後です。ガブリエルは以下のように続けるのです。

人は完全には善になることはできず、もがき続けることになります。ヘーゲルとシェリングは、こうした善と悪は同根であるというカントの考えを批判しました。(マルクス・ガブリエル/中島隆博『全体主義の克服』)

なぜ人が完全に善になれないことが、善と悪が同根であることに直結するのでしょうか。そもそも「同根」というのは何を意味しているのでしょうか。

読み進めていくと、どうやらそれは「〔人が〕悪に堕ちることは運命づけられていること」を指しているようです。この後で、このような考え方はルターが導入したものであることについて語られているので、カントの道徳哲学は要するに決定論であると言っているものと解釈できます(ルターは有名な決定論者です)。

つまり、まとめるとこうです。①人は完全に善にはなれないために、②善と悪は同根であって、③それによって悪が不可避となり、④このことは決定論に行きつくのです。私には本来は結びつかないものを無理やり結びつけているようにしか見えません。しかも、なぜこのように論を進めることができるのかについて、根拠や典拠がほとんど示されていないので、まったく追うことができないのです。

ガブリエルのカントの奴隷賛同論

私のブログでは最近、集中的に差別問題について扱っているので、その点についても取り上げたいと思います。ちなみに、カントは奴隷制度について以下のように述べています。

何びとも、一個の人格たることを中止せしめられるような、こういう奴隷状態へ拘束されえない。(カント『人倫の形而上学』)

カントは明確に奴隷制度に対して反対の姿勢を示しています。ところがガブリエルは、まったく逆のことを述べるのです。

黒人のためにできる最善のことは、彼らを白人のために働かせることであり、それは黒人を文明化する助けになる。黒人を奴隷にして、目的のための手段として利用しても問題ないとカントは考えていたのです。(マルクス・ガブリエル/中島隆博『全体主義の克服』)

カントは、人を目的として見なし、決して手段としてのみ用いないように戒める論者でした(目的の定式参照)。ところが、ここで言われていることはその真逆です。もしくは、黒人は人間の範疇に入らないということなのでしょうか。カントはどこかでそんなことを言っているのでしょうか。

ガブリエルに言いたいことは一点です。それは、根拠(どのとうな理屈からこのような解釈が導かれうるのか)と典拠(カントはどのテキストの何ページで言っているのか)を示してほしいということです。まあ実際にはカントはそんなこと言っていないので、無理な要求でしょうが…。

結論

ガブリエルの著書は日本でもたくさん出ていますが、みなさん注意してください。決して真に受けないでください。私には彼が、漠然とした理解から、何となく「話を作っている」ようにしか見えません。

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