先日、12月1日に私が住む町(ドイツ・トリア)で、精神疾患を抱えた人が泥酔した状態で車を運転して、歩行者を次々に撥ね、5人が亡くなり、14人が負傷するという事件がありました。当初は、犯人が逃げたこともあり(私が一報を受けたときには「犯人は逃走中。外出しないように」ということでした)、当日は町中は立ち入り禁止、救急車やヘリコプターの音がひっきりなしに鳴っている状態でした。夕方の全国ニュースでもトップニュース扱いでした。
直接の知り合いが犠牲になったという可能性はあまり高くありませんが、小さな町ですし、間接的な知り合いが犠牲になった可能性はそれほど低くないと思います。私にも間接的な知人がいて、その人から犠牲になった人の情報が入ってきました。犠牲者の一人は生まれたばかりの子供がいる父親で、その話を聞き、負傷しながらも生き残った妻や子供のことを考えると、やりきれない気持ちになります。
犠牲になった人についての話を聞いたり、そういった関係性がなくても、自分の身近で起きた惨事にショックを受けている人たちがいます。そのため事件以降、この町では誰もが人と会うときには、相手を気遣うようになっています。
共苦倫理(感情倫理)
今回は、この事件に関連して、共苦(Mitleid)の概念について考えてみたいと思います。共苦倫理(Mitleidsethik)という立場を唱えた人がいます。それがショーペンハウアーです。
ショーペンハウアーは、人間というものはエゴイズムや悪意を持っているものの、共苦の感情によってそれを超克できるのであり、そのため共苦からの行為のみが道徳的価値を有すると唱えました。
行為は、共苦に発する限りにおいてのみ道徳的価値を持ち、それ以外のどのような動機に発する行為も道徳的価値を持ちえない。(ショーペンハウアー『道徳の基礎』)
今回の出来事に絡めて言えば、多くの人が傷つき、ショックを受けています。その人の話を親身になって聞いて、その苦しみを共に分かち合うことが道徳的に正しいことなのです。ここだけを取り上げると、至極まともなことを言っているように見えます。
義務論(理性倫理)
このようなショーペンハウアーの考え方に異論を唱える者がいます。それがカントです(時系列にはカントの方が先なのですが、カントの言っていることがそのまま後世を生きたショーペンハウアーへの批判となります)。カントは以下のように述べています。
禍は本来(自然においては)ただ一人にかかわっているに過ぎないのは、同時に二人が悩むことになるのである。しかしながら、この世において禍を増長させることが義務であるということはおかしなことである。そのため、共苦から親切をほどこすという義務はありえない。(カント『人倫の形而上学』)
もし共に苦しむことが倫理的義務であるとすると、一人が苦しんでいる場合には、別の人も苦しまなければならないことになります。そして、その二人目が苦しんでいるからには、また別の人が苦しまなければならないことになります。つまり、苦しみは増殖することになるのです。そうすることが倫理的義務であるなどということは「ばかげている」とカントは言うのです。
感情の役割
カントが共苦から行為することが倫理的義務たりえないと考える理由はもうひとつあります。ショーペンハウアー自身、共苦のことを衝動(Triebfeder)と表現しています。カントに言わせれば、これは自身でコントロールすることのできない感情と言えます。感情とは誰もが持っているものであり、状況によって自然に湧いてくるものであって、それを持つ義務というのはありえないのです。
道徳的感情を持つという義務、あるいはそういったものを獲得するといった義務はありえない。(カント『人倫の形而上学』)
もし道徳的善が、感情に流されることによってのみ可能であるとすると、理性によってそれに向かって努力することができないことになります。ショーペンハウアー自身もそのことには気づいていました。
倫理学は、無情な人間を共苦に富んだ人間に、従って、公正で人間愛に富んだ人間に作り変えることができるのであろうか。――いや、絶対にできない。(ショーペンハウアー『倫理学の基礎』)
ショーペンハウアー曰く、人の性格とは生まれながら決まっているのであり、それを後天的に作為的に変えることなどできないというのです。つまり彼は、自身の倫理学説を展開しておきながら、それで倫理的善をなせるようになるわけではなく、努力することすらできないと言うのです。
結語と次回予告
私は、倫理学という学問は、人が善く生きるための手引きとなるものだと思っています。そのため、ショーペンハウアーのような「努力しようとしたって無駄」というペシミスティックな立場には与することができません。
他方で、今回の記事の内容は、カントは共苦の感情に対して否定的なことしか言っていないような印象を抱かせるものであったかもしれません。次回では、決してそんなことはなく、カント倫理学において、共苦の感情にも重要な役割があることについて論じたいと思います。