キテレツな話

カント倫理学

ここのところマンガをネタにした記事を書いていますが、今回もその流れでいきます。

うちには小さな子供がいるので、よく子供にマンガを読んであげます。ドイツで生活していますが、一時帰国した際に大量にマンガを買って、ドイツに持っていくことを繰り返しています。

先日、子供にキテレツ大百科を読んであげました。気になった話があったので、まずはそのあらすじを紹介することからはじめたいと思います。

「キッコー船の冒険」

キテレツは夏に親に内緒で、自分で船を作って海へ行きます。そこで溺れている子供を救出します。それを知ったキテレツの父親は、キテレツが人助けはしたものの、断りなしに子供だけで海へ行ったために、「ほめるべきかしかるべきかまようなあ」とつぶやいて、マンガは終わるのです。

ここがオチであり、おもしろさを出すために、このようなセリフとなったのでしょうが、カント的な発想を用いれば、迷うことなどないのです。

さまざまなよさについて

人助けをしたという結果は紛れもなく良いのです。ただ問題は、親に黙って海に行ったことです。これはカントに言わせれば判断力に関わり、能力的(Talente des Geistes)な良さに分類されます。この点に落ち度があったのであれば、ピンポイントで、次回からは海に行きたい場合は親に言うように窘めればよいのです。

また、溺れている人を助けたにしても、カントに言わせれば、利己的な都合から、例えば、見返りを求めてそうしたのであれば、そこに道徳的価値は認められません。あくまで非利己的で純粋な動機からなしたときにのみ道徳的価値が認められるのです。キテレツの父親は、キテレツがどのような動機から行為したのか、尋ねるべきなのです。それをしたからといったキテレツの動機が完全に分かるわけではありません。キテレツが嘘をつくかもしれませんし、嘘をつくつもりなどなくても、真意が伝わらないかもしれないからです。しかし、尋ねることによって、伺い知ることくらいはできるはずです。尋ねることすらしなければ、何の情報も得られず、評価を下しようがないのです。

要するに、キテレツの父親は、「褒めていいのか、怒るべきなのか分からない」と言うのですが、さまざまなよさ(例えば、結果の良さ、判断力の良さ、道徳的な善さなど)を区別していないため、また、相手の言い分を聞かないために、的確な言葉がかけられないのです。

子供に伝えたこと

この話を読んで私が子供に伝えたことは、もし溺れている人を助けられなかったとしても、非利己的で純粋な動機から人を助けようとしたのであれば、それ自体がすばらしい(道徳的に善なる)行為であるということです。

善意志は、それだけで宝石のように、自分の価値を自分のうちに保つものとして光り輝くであろう。役に立つとか立たないとかといったことは、善意志の価値を増減させたりできないのである。(カント『人倫の形而上学の基礎づけ』)

結果にばかり捕らわれて、子供の内面に関心を払わないような親にはなりたくない、なってはいけないと私は思っています。

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