(new!) オンライン講座の受講生募集

4月26日(金)から、NHKカルチャーセンターでオンライン講座を担当します。カントや倫理学に対する事前知識があっても、なくても構いません。対話形式で進めるので、みなさんの理解度や関心にそって講座を進めていきます。

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ただ投げる、ただ蹴る、ではダメでしょ

セーフコ・フィールド カント倫理学

今回も引き続き、行為の根拠についての話をしたいと思います。

根拠を持って練習に取り組む

先日、メジャーリーグ、シアトル・マリナーズの菊池雄星投手が、根拠について、より具体的には、根拠を持って練習することの必要性について説いているインタビュー記事をたまたま目にしました。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200108-00842047-number-base&p=1

そこには以下のような記述がありました。

「今日は1ストライク1ボールからのピッチングを極めよう」や、「2ナッシングからボールのスライダーを投げよう」など、1球1球に根拠を持って練習しているのです。(菊池雄星) 

菊池投手の話によると、日本では「〇〇球投げる」といった球数を決めて投げることがよくあるというのです。しかし、実際の試合では球数を目標に据えて投げるということはありません。試合の中では状況によって、具体的には、点差、アウトカウント、ストライクカウント、バッターの特徴など、様々な要素から、例えば、ボールからストライクになる球を投げるとか、アウトローぎりぎりに投げるといった目標を設定するはずです。だったら、練習のときから、できる限りそういった現実に即した目標を立て、取り組んだ方が実践的であり、有効なのではないでしょうか。

菊池投手の話を読んでいて、私が日本の小学校でアルバイトしていたときのことを思い出しました。そこには、あるサッカークラブのユースチームに所属していた生徒がいました。彼が、チーム練習のアップの段階で、毎日リフティングをノーミスで200回、ミスしたらはじめからやらされるという話をしたのです。これを聞いていた他の子供たちは「すごいな」という反応をしていたのですが、私は正直「そんなことやっているからダメなんだよ」と思いました。

試合中に相手からのプレッシャーのないままリフティングをする状況など考えられません。リフティング200回、ミスしたら最初からやり直すという練習には相当な時間と体力が必要となるはずです。その時間と体力を現実の試合では起こり得ないことのために使うのは非生産的であると思ったのです。

実際、私がドイツに住んでいて、日本人のサッカー選手について「〇〇は技術はあるけれど、試合ではそれが十分に活かせていないな」という評価をよく耳にします。つまり、試合で使わない技術にはすぐれているけれど、試合で必要な技術が不十分という評価です。

結果のみに関心を寄せ、過程を軽視する傾向とその影響

話を菊池投手に戻すと、彼自身が先ほど触れたように、投球数を目標にしたり、コーチから言われたことに盲目的に従ったりしており、日本ではあまり自分で考えて野球をやっていなかったと認めています。

私はあまり「日本は~」「日本人は~」とひとくくりにしたくないのですが、それでも日本という国は文化的に自分の頭で考えさせることが重要視されていないということは否定しがたい事実なのではないでしょうか。プロセス軽視という言い方もできるかと思います。

日本のプロセス軽視の姿勢は以下の菊池投手の言葉にも現れているのではないでしょうか。

自分が日本でプレーしていた時について反省しているのは、自分が意図したボールがいっていない時でも、結果的に抑えられていれば満足してしまっていたことです。(菊池雄星)

菊池投手は(謙虚にも)自分自身への反省点として述べていますが、私は主な原因は、結果が良ければ褒める、悪ければけなす、そして、過程には関心を向けないという、監督やコーチ、マスコミ、また社会的な風土が根底にあるのではないかと思っています。

関連することは筒香選手のインタビューに絡めて書いたことがあるので、そちらも参照してみてください。

筒香選手の提言
勝利至上主義が子供のためになるのでしょうか?

どちらかというと、菊池選手の場合は、かつての自分自身に向けて、そして筒香選手の場合は、外(とりわけ日本の教育現場)に向かって語っており、そのため表現の仕方に差異はあるものの、言っている内容は重なり合っていると思います。それは、結果にばかり重きを置き、プロセス・過程(思考内容や根拠の有無)を軽視してしまうことへの問題提起です。

さいごに 環境を変えることの必要性

日本のスポーツの現場は、学校で行われる部活ですら、「勝ちさえすればいい」「上の人の意見は絶対」「お前らは俺の言うことに従っていればいい」といった風潮が今でも色濃く見られます。しかし、そういった環境下では、そこに属する選手や生徒ひとりひとりの主体的に考える力、根拠を持って行動する力はなかなか陶冶されないのではないでしょうか。

もちろん、指導者はある程度は選手や生徒を縛り付けることも必要です。しかし、それはあくまで彼らが将来的に自分で考え、根拠を持って行動できるようになるためであって、他人に押し付けられた価値観に一生縛りつけておくためではないはずなのです。

関連したこととして、カントは以下のように述べています。

私たちは子供たちに強制を加えるが、その強制は彼自身を導いて、自分自身の自由を使用できるようにするものであること、また、子供を教化するのは、彼が将来自由になることができるためであり、換言すれば、他人の配慮に寄らなくてもよいようにするためである。(カント『教育学』)

選手や生徒に自分の頭で考えさせ、根拠を持って行動させるということは、彼らにその自由、そして、責任を与えるということに他なりません。その道を通ることなくして、彼らが主体的な大人(ein  mündiger Mensch)なることはないのではないでしょうか。