私がカント倫理学に惹かれる理由について簡潔にまとめてみたいと思います。それは一言で表現すると、人の内面に関心を寄せ、評価するためと言えます。
カント自身は以下のような言い方をしています。
何となれば道徳的価値が問題である場合、重要なのは、我々の目に見える行為ではなく、行為の目に見えない内的原理なのである。(カント『人倫の形而上学の基礎づけ』)
人は(私も含めて)ついつい目にみえる現象のみから短絡的に物事の価値を判断してしまいがちです。カントはそれではいけないのであり、内面に関心を寄せるべきであると警鐘を鳴らしているのです。
同じ倫理学者でも、他の立場の論者たちは、必ずしもそうではありません。
例えば、古典的な功利主義は、全体としてより大きな幸福を生み出す行為に善性を見出します。結果を重視するために、帰結主義とも呼ばれます。その有力な論者であるジョン・スチュワート・ミルの挙げている例をここに紹介すると、溺れている人を救う行為は、それによって多くの人が喜ぶであろうから正しいのです。
倫理性は結果のうちにあり。
このような考え方に深く関わるのが、アリストテレスの倫理学説です。彼は「徳」という言葉に重きを置くため、その考え方に根差した倫理学説は今日「徳倫理学」と称されています。そのアリストテレスはアレテー、すなわち卓越性のうちに徳を見出します。先ほどの溺れた人を救う例に絡めて言えば、溺れている人を助けるのには何をすべきか知っており、それだけの技術を有し、勇敢な性格を備えているから、それをなすことができるのです。
徳とはアレテー(卓越性)である。
他方でカントは、これらの説の妥当性についてきっぱりと否定します。彼によれば動機、具体的には意志次第で、卓越性は悪い方向に向かいうるし、そうなれば結果も悪いものともなりうるのです。例えば、卓越性があれば人を救うことができますが、同じように、卓越性によって人を殺す兵器や薬を作ることもできます。使用方法によっては悪しき結果を招くことにもなるのです。そう考えてみると、卓越性自体は倫理的には無記(善でも悪でもない)なのであり、要は使いようなのではないでしょうか。
何事も意志次第で、よい方向にも悪い方向にも向かいうる。
卓越性や結果が条件によって良いものとなったり、悪いものとなったりするのとは対照的に、意志はそれが非利己的で純粋なものである場合、それ自体で倫理的価値を有するのです。カントは人間の内面に関心を寄せ評価しようとする、私はそういった姿勢に共感するのです。