オンライン講座のお知らせ

2025年1月10日よりNHKカルチャーセンターにおいて「カントの教育学」をテーマに講座を持ちます。いつも通り、対話形式で進めていくつもりです。とはいえ参加者の方の顔が出るわけではありませんし、発言を強制することもないので、気軽に参加してください。
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アイヒマンの悪性について

アイヒマン カント倫理学

以前記事にしたことがありますが、私は四歳の息子にも、自分の判断の根拠について尋ねるようにしています。

息子に伝えたいこと
私は目に見える結果や数字ではなく、子供たちの目に見えない内面に関心を払い、評価したいと思っています。そのためには私は彼らに自身の考えについて頻繁に問わなければならないことになります。

将来、自分の判断であり、行動でありの根拠について、しっかりと答えられるような人間になってほしいためです。

とはいえ四歳児が相手では、何を言っているのかよく分からないこと、話がかみ合わないことも少なくありません。現段階では私はそれでいいと思っています。それに関してカントは以下のように述べています。

このような〔自由や自律に向かわせるための〕強制がどういう役に立つのか子供にはすぐに分からないかもしれないが、やがてその大きな利益に気づくことであろう。(カント『教育学』)

今の段階では話が噛み合わなくても、親の意図が分からなくてもそれでいいと思っています。そのうち分かるはずだと私は信じています。

たまにあるのは、息子は自ら言い出したことなのに、その理由を私に聞いてくることです。例えば、自分から「サイコロゲームをしたい」と言ってきたのに、しばらくしてから「どうして僕はサイコロゲームを選んだの?」と聞いてくるのです。こんなレベルでは責任は問えませんね(苦笑)。

ナチスの高官アイヒマン

他方、前回の記事において紹介したアイヒマンのように、大量のユダヤ人を強制収容所に送る任務に就いておきながら、自らに責任がなかったことを強弁する姿勢は受け入れがたいものがあります。

なぜ受け入れがたいのでしょうか。大まかには以下のような理由が挙げられるかと思います。

①アイヒマンが四歳児ではないため

②大量の殺人に加担したという事の重大性において

③「自分で言うか!」という点において

アイヒマンに責任(能力)はあったのか?

加えて政治哲学者のハンナ・アーレントは、アイヒマンには上の命令に従っていただけであり、自分の頭で考えていなかった、そもそもそのための力が不足していたことを指摘しています(つまりアーレントは「秋元の四歳の息子とたいして変わらないんだよ」と言っているわけです)。戦後にアイヒマン裁判を傍聴したアーレントは、アイヒマンに対して以下のような印象を書き記しています。

犯された悪は怪物的なものでしたが、その実行者は怪物のようでも、悪魔のようでもありませんでした。〔中略〕アイヒマンは愚鈍なのではないですが、奇妙なほどにまったく「思考すること」ができないのでした。(アーレント『責任と判断』)

アーレントはこのように、アイヒマンには思考力が欠如していたために、それが倫理的な問いであることに思いが至らないまま無実の人々を強制収容所送りにする政策に加担したという論を張っているのです。

しかしながら、本当にそんなことがありうるのでしょうか。私はこの点に関して懐疑的な目を向けます。

顔を覗かせる悪性

私のなかで引っかかるのは、アイヒマンの言明が明らかに矛盾している点です。ーー彼は自分の行動の正当性を主張したい場合には、自分のしていたことの正しさについて確信していたと強弁するのです(そこで彼はこともあろうにカント倫理学を持ち出し、「私はカント倫理学に従ったまでだ」と説明したと言います)。他方で、自分に責任がないことを説きたい場合には、ヒトラーや上官の命令は絶対的であり、盲目的に従わざるをえなかったことについて語るのです(いわゆる「歯車理論」を持ち出すのです)。

ただ言明が矛盾しているだけでは、アーレントの言うように、単なる思考力の欠如(論理的思考が苦手)という可能性も考えられます。ここで注目すべきは、彼の言動にはひとつの原理が貫かれている点です。それは「自分の罪を認めなくない」「自分の責任を認めなくない」という原理です。その原理を貫徹する思考力は持ち合わせていたのです。

そうだとすれば、内心では罪を自覚していたのであり、そのため彼はありのままの事実を告げるわけにいかず、理屈を後付けせざるをえず、それによって言動が不整合をきたしてしまったと受け取るのが自然なのではないでしょうか。このように、真実が何であるのか内心では分かっていながら、自分自身がその真実を知らないかのように誤魔化す態度をカントは「自分自身を煙に巻く不誠実」(blauen Dunst vormachen)と表現し、そこに悪性を見出すのです。

悪の凡庸性

またアーレントはアイヒマンのうちに悪の凡庸性を見出します。彼女は、そこに誰もが犯しうる可能性を見すためです。そしてそれは戦争などの極限状態のみならず、今を生きる私たちの日常のうちにも起こりうることなのです。

人がアイヒマンと類似の状況に身を置いたとき、容易に凡庸な悪を犯してしまうことは、様々な心理学の実験(ミルグラム実験やスタンフォード監獄実験など)によっても実証されています。

ミルグラム実験 - Wikipedia
スタンフォード監獄実験 - Wikipedia

ちなみに、どちらも映画になっているので、興味のある方は観てみてください。

ここで「私は絶対に人など殺さない」「ナチと一緒にするな」などと言う人もいるかもしれません。しかし、そうやって、「自分は大丈夫」「自分は違う」などと他人事として受け止めているほど危険であると私は思っています。机の上で考えている分にはそう言えるかもしれませんが、状況によっては誰もが自ら思考停止に陥り、好んで流されてしまう可能性があることを十分認識すべきなのです。

人殺しの例は身近でなく、ピンと来ないかもしれません。他方で前回の記事の冒頭に取り挙げたパワハラの例であれば、自分に関係のあることとして、より受け止めやすいかもしれません。パワハラをしている人ほど、「自分は大丈夫」「自分は違う」などと思っているか、そもそも深く考えることなく行動してしまっているのではないでしょうか。反対に、「自分もやってしまうかもしれない」「気を付けなければならない」と思い、意識している人ほど、自らがパワハラに及んでしまう危険性は低いのではないでしょうか。

さいごに

私は自らの研究している理論に則って生きようと努めていることを口にすると、他者から皮肉を込めて、「君は自分の言っていることをそのまま行動に移すことができているのか?」「自分のことを棚に上げてきれいごとを言っているんじゃないの?」というような言われ方をされることがあります。すでにブログ上で何度か断っていますが、私が倫理学を研究しているのは、カント倫理学が実り多いものであり、それを土台とした意志の倫理学のすばらしさを探求し、より多くの人に知ってもらうためです。加えて、私は自分が思慮を欠いたまま行動してしまうことがあること、そして利己的な感情を備えた、弱い存在であることを自覚しているからという側面もあります。自分が倫理的悪を犯してしまう恐れがあり、実際に悪を犯してしまうことがある。だからこそ、私のなかで倫理が切実な問題となるのです。その危機感を決して失ってはならないと私は思っています。