オンライン講座のお知らせ

2025年1月10日よりNHKカルチャーセンターにおいて「カントの教育学」をテーマに講座を持ちます。いつも通り、対話形式で進めていくつもりです。とはいえ参加者の方の顔が出るわけではありませんし、発言を強制することもないので、気軽に参加してください。
詳細とお申込みはコチラ

啓蒙とは何か?

啓蒙とは何か カント倫理学

カントが若かりし頃のプロイセン(今のドイツ)では一般市民はまともな教育を受けることができませんでした。彼ら市井の人々は、教育を受けた貴族や富裕層からは、自ら考える力を欠く存在と見なされていたのです。

その後、ちょうどカントが活躍しはじめた時期に「啓蒙」という概念が(イギリス発、フランス経由で)プロイセンにも入ってきました。それによって、知識人の間にも、臣民にも理性が備わっているのであり、その理性を発揮できないのは機会がなかっからに過ぎないという認識が広まっていったのです。カント自身がその影響を強く受け、そして、自らがその啓蒙運動に寄与するようになっていったのです。

この啓蒙運動というのは日本から遠く離れた地で起こった歴史的な出来事であり、今を生きる私たちが啓蒙思想から学ぶことがあるなどとは思いもよらないかもしれません。しかし私自身は大有り・・・だと思っています。

その理由について説明するために、まずはカントの「啓蒙」という語の定義を押さえておこうと思います。カントは『啓蒙とは何か?』の冒頭において以下のように述べています。

啓蒙とは、人間が自分の未成年状態から抜け出ることである。ところでこの状態は、人間が自ら招いたものであるから、その責は彼自身にある。未成年とは本来、自らの悟性(理性)を使用できるのに、後見人の影に隠れて使用しようとしない状態のことである。(カント『啓蒙とは何か?』)

啓蒙された状態とは、自らの理性を使用することのできる状態、もう少し簡潔に言えば、自分の頭で主体的に考えることのできる状態のことなのです。反対に、自分の頭で考えることをしない状態をカントは未成年状態と呼ぶのです。

私は大学の授業では必ず学生には発表をさせるようにしています。その分、私が授業の準備をする手間が省けるからではなくて、学生により主体的に参加してほしいからです。以前は「テーマは自分で決めていいよー」と言っていました。しかし、そうすると学生の側から「いや、先生の方で決めてください」という意見が出てくるのです。最初は「こういう学生もいるのか」と思ったのですが、毎学期そういった学生が出てくるのです。そのため、いつからか、こちらでテーマをいくつか提示して、学生にはそのなかから決めてもらうことにしました。

私の感覚では、自分の関心があるテーマについて書いた方が楽しいし、よいものが書けると思うのですが、そうではないのでしょうか・・・。

「自分ではテーマを決められません」という学生の発言を聞くと、(学生は自ら哲学を専攻することを決めて、哲学の授業に来ているはずなのに)「自分で考えて、決めるのは嫌なので、先生がやってください」と言っているように私には聞こえるのです。

私がここで何を言いたいのかというと、ひとつの問題提起をしているのです。つまり、ドイツであろうと日本であろうと、今日の先進国では誰もが教育を受けることができ、自分で考えるための環境は整っているはずなのですが、実際のところ人々は自ら主体的に考え、行動しているわけではないのではないかということです。

みなさんはどうでしょうか。これまでの自分の人生における考えや、判断について、どれだけ胸を張って言えるでしょうか?

カントは、自ら考えようとしない(未成年状態に陥ってしまう)人に欠けているものについて以下のように指摘しています。

〔その責は彼自身にある〕というのは、この状態にある原因は、理性が欠けているのではなく、むしろ、他人の指導がなくとも、自分自身の悟性(理性)を使用しようとする決意と勇気を欠くところにあるからである。(カント『啓蒙とは何か?』)

もし仮に啓蒙が知識に関わるのであれば、自分ではどうすることもできない側面が絡んでくることになります。教育を受けられない人々はそこからはじかれてしまうのです。つまり、どの時代の、どの国の、どの家に生まれるかといった自分ではどうすることもできない偶発的要素が決定的な役割を担うことになってしまいます。

また、教育を受けることができる人のなかでも、覚えたり理解したりすることが早い人もいれば、遅い人もいます。このような能力や適正の有無もまた偶発的なものです。

このような「たまたまその環境に生まれたから」「たまたまその才能を有していたから」という側面が本人の責任に帰せられるというのは不合理と言えます。カントはそのようなことは主張しません。

他方で、自分の頭で考えることであれば、誰にでもできるはずなのです。カントは、自分の頭で考えるのに必要なのは「勇気」(Mut)と「決意」(Entschließung)であり、それを行使する権能は万人に備わっているはずであると言うのです。彼は、その本来であれば誰もができるはずのことをしないことを「怠慢」(Faulheit)「怯懦」(Feigheit)と称して厳しく戒めるのです。カントは自分のできることだけを要求し、それができないときにだけ、その責任を追及するのです

カントの『啓蒙とは何か?』は、その辺の街中の図書館にあるはずです。薄いですし、ゆっくり読んでも30分くらいで読めると思います。興味があれば、ぜひ読んでみてください。訳にはところどころ注文を付けたい箇所がありますが、手に入れやすいのはこの二つだと思います。

秋元
秋元

本を読んだ感想などもらえるとうれしいです。