カント先生、子供にどのように接するべきなのでしょうか

カントの教育学カント倫理学

これまで数回にわたって、子供が主体的に考える機会を得ること、その力を陶冶していくことの重要性について考えてきました。

私自身のことを思い返してみると、子供の頃に教師や指導者に意見したという記憶はありません。そのときは自覚していませんでしたが、教師や指導者に意見するなどといったことは不遜で傲慢な姿勢であって、黙って従うことがよいこと、望ましいことと思い込まされていたような気がします。

秋元
秋元

(本当は大人の言っていることがよく分からないけれど…)ハイ、分かりました!

カントはケーニヒスベルク大学の哲学教授でしたが、教育学の講義も担当していました。その講義録が『教育学』として刊行されており、私たちは今日、それを目にすることができます。そこには大人の子供への接し方についてのカントの立場が描かれています。例えば、カントは以下のように述べています。

理性の陶冶にあたってはソクラテス流でなければならない。(カント『教育学』)

ソクラテス流とはどういうことなのでしょうか?

ソクラテスは積極的に他者と対話(問答法)をしました。しかし、それは自身の考えを理解してもらうためや、ましてや押し付けるためではなく、対話相手自身に気づかせるためのものでした。

カントは先の引用文の後で、ソクラテス的な教育について多少ですが説明を加えています。

子供は万事について根拠を知る必要はない。しかし、それが倫理的義務に関するものである場合には、ただちにその根拠を自覚できなければならない。しかし、とにかく我々は理性認識を子供のなかに持ち込むのではなく、子供のなかから取り出すように努めなければならない。(カント『教育学』)※強調は秋元による

ソクラテスの問答法はよく産婆術と形容されます。子供を産むのは女性自身であり、産婆はその補助に徹します。同じように、規範は本人が導くべきものであり、大人はそのサポートに終始すべきなのです。

仮に大人が子供に無理やり規範を押し付けた場合、確かにその場では子供は大人の指示に従うかもしれません。しかし、子供が納得していなければ、その規範の効果は、時間の経過とともに、薄れていくことになります。そのうち、まったく機能しなくなるかもしれません。後に残るのは、自分で主体的に考える力が十分に備わっていない中身のない人間ということになりかねないのです。自ら主体的に動くことのできない、指示待ちの人間を生み出してしまっている日本の教育環境についての記事を書いたことがあるので、関心がある人はそちらを参照してください。

https://yasutakaakimoto.com/ethical-theory-of-will-article6/

他方で、ソクラテス的な教育によって、大人が子供に問いを与え、考えさせ、自ら気づかせた場合。子供は自分で主体的に動いていることになります。規範は他人の目に関係なく、時間的・空間的制約を受けずに、強く自分自身を縛ることになるのです。

自分で決めたことだから!

他者から課された規範を盲目的に従っている限り、道徳法則に則っているとは言えず、そのためそこに道徳的善性を見出すことはできません。自ら道徳法則を導き、それを自身に課すことによって、すなわち自律によってのみ、道徳的善は実現するのです。

意志の自律がすべての道徳法則と、それらに適合する義務の唯一の原理である。これに反して、選択意志のすべての他律は拘束性の基礎とはまったくならないばかりか、むしろ拘束性と意志が持つ道徳性の原理に対立するのである。(カント『実践理性批判』)

このような自律の重要性を説くカントの立場は、実は日本の教育に深い関わり合いを持っています。

日本の学校には「道徳」という授業があります。以前のこれが教科外活動であった頃から学習指導要領には自律心を身につけることの必要性について説かれていました。山口匡氏はこの概念がカントに由来するものであることを指摘しています(以下のサイトから論文をダウンロードして読むことができます)。

https://ci.nii.ac.jp/naid/120005261471

それが平成29年公示の現行の学習指導要領によって、それまでの「教科外活動」であった「道徳」は「特別の教科道徳」に格上げされました。カント由来の自律の重要性が説かれていることに変わりはありません。現在日本の教育現場において徳目として掲げられているもの、そして、それを涵養するための筋道が、今から200年以上も前にカントによって説かれていたものであるという驚くべき事実は、彼の思想の普遍性を示していると言えるのではないでしょうか。

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