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教育における「障害」とは | カントに学ぶ意志の倫理学

教育における「障害」とは

自分の価値観を押し付けない教育カント倫理学

カントは、大人が子供に自分の願望や価値観を押し付けるような姿勢を厳しく戒めます。よくある例を挙げると、難関大学に入ることや、特定のスポーツで活躍することを強いるような態度です。

カントが活躍していた当時もそういった親がいたらしく、彼は『教育学』のなかで、出世することだけを気にかける親の姿勢を「障害」と表現しています。

では、なぜそれが「障害」なのでしょうか?

 

それはまず、倫理的な意味においてです。

子供を自分の願望を体現してくれる対象として扱うことは道徳法則に悖るという言い方ができます。道徳法則の導出についての説明は、以下の記事を参照してください。

感情と理性の役割
人間は感情と理性の両方を備えた存在と言えます。では、それぞれにどのような役割が備わっているのでしょうか。

ここに言及されているような、普遍的な視点に立って道徳法則を導く思考実験のことを、ここでは「普遍化の思考実験」と呼んでおくことにします。ここでも簡潔にまとめておくと、それは普遍的な(様々な属性の他者による)視点に立ち、いかなる行為原理が望ましいものとして見なされるかの思考実験なのです。

道徳法則の導出には、加えて、もうひとつ有効な思考実験があります。今回に関しては、そちらを参照した方が良いかもしれません。それは以下のように表現されています。

君は君自身の人格、ならびに、あらゆる他人の人格における人間性を常に同時に目的として使用し、決して手段としてのみ使用しないようにせよ(カント『人倫の形而上学の基礎づけ』)

人を単なる手段として用いることは、人格や人間性を物のように扱っていることに他ならず、そのため倫理的に許容されえないのです。

このような思考実験(人を手段として扱っているか、それとも目的として扱っているかについての内省)をここでは「目的の思考実験」と称しておきたいと思います。

自分の子供であろうと、自分の願望や価値観を無理やり押し付けるような態度は、どちらの思考実験(つまり「普遍化の思考実験」と「目的の思考実験」)に鑑みても戒められるのです。

カントが「障害」と呼ぶのには、倫理的観点以外に、子供の自分で考える力が磨かれない、そして、そのため、大人になっても自分の考えをしっかり持つことができないことによってもたらされる弊害、つまり、実利的弊害を挙げることができます。

この点に関しては、(親や指導者の希望に適い、プロ野球選手になった人たちですら)自分で考えて動くことができずに、指示待ちの人間が多いことを指摘する筒香選手のインタービューをもとに書いた記事を参照してください。

筒香選手の提言
勝利至上主義が子供のためになるのでしょうか?

プロ野球選手になるような才能あふれる人たちのなかですら弊害が出てしまうのです。芸に秀でているわけではない私たち一般の人間などは、なおさらその弊害について危惧する必要があるのではないでしょうか。

大学生の頃、私にはS君という学友がいました。S君はとても優秀な学生でした。そんな彼がある日を境に、ぱったりと大学に来なくなってしまったのです。すばらくしてからS君の母親を名乗る人から電話があり、S君が失踪してしまったこと、彼が残した携帯電話の連絡先に私の名前があったために、私に電話をしてきたことなどを聞かされたのでした。

私はS君が失踪してしまった理由についてまったく心当たりがなく、有益な情報を提供できるわけでもなく、電話していたのはせいぜい5分程度だったと思います。ただ、その最中に、私はS君が失踪してしまった理由について薄々気がついてしまったのです。

S君の母親は所々に「子供の頃から勉強は一番だったのに」「せっかく県下トップの偏差値の高校に入ったのに」「大学でも成績は特待生なのに」といった情報を挟んでくるのです。私はそれを聞いていて、「この人が自分の親じゃなくてよかった」と思ってしまったのでした。

秋元
秋元

こんな話ばかり聞かされたら参ってしまうなぁ。

それからしばらくしてS君は無事に「発見」されました。彼はそれまで親元で暮らしていたものの、衝動的にそこから逃げ出したくなり、しばらくの間、浮浪者のような生活をしていたというのです。私はわずかながらも彼の母親に触れていたので、S君の気持ちが痛いほどよく分かりました。

私は今でもS君を思い出す度に、もし彼が親の願望や価値観に縛られることなく、カント的な教育、つまり、内面に関心を寄せ、尊重する教育に触れていたならば、あれほど苦しみ、自分を見失ってしまうようなことにはならなかったのではないかと思うのです。

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