オンライン講座のお知らせ

2025年1月10日よりNHKカルチャーセンターにおいて「カントの教育学」をテーマに講座を持ちます。いつも通り、対話形式で進めていくつもりです。とはいえ参加者の方の顔が出るわけではありませんし、発言を強制することもないので、気軽に参加してください。
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子供に教育を施す義務

子供の日本語教育 カント倫理学

↑5歳になったばかりの息子が書いた、「ひらがな」と足し算です。私が「パパはやることがあるから、ちょっと一人で遊んでいて」と言うと、息子は「ひらがな」や足し算の練習をはじめるのです。

このような書き方をすると、「ほっといて勝手にお勉強するのか?」と思われるかもしれませんが、そうではありません。私がそうなるように仕向けているからです。そういう意味では「やらせている」と言えなくもありません。

外的強制から、内的強制へ

ここにひとつのパラドックスを見ることができます。カントは自分で自分をコントロール(内的強制)する「自律」の大切さを説きます。とはいえ、子供には困難と言えます。そのため、自分を自分でコントロールする力を涵養するために、まずは他者による強制(外的強制)が必要となるのです。

私たちは子供たちに強制を加えるが、その強制は彼自身を導いて、自分自身の自由を使用できるようにするものであること、また、子供を教化するのは、彼が将来自由になることができるためであり、換言すれば、他人の配慮に寄らなくてもよいようにするためである。(カント『教育学』)

親が何もしないのに、子供が勝手に勉強をはじめ、実際に勉強ができるようになるなどといったことはありえません。

生物学的な意味での人間に生まれれば、何もしなくとも生物学的な人間です。しかし、何もしないで、人間らしい人間になるわけではありません。人間は教育によって、はじめて人間らしくなれるのです。

人間は教育によってはじめて人間になることができる。(カント『教育学』)

この命題から必然的帰結として親が子供に教育を施す義務が生じることになります。

教育は両親の絶対的な自然義務である。(カント『人倫の形而上学』)

日本語教育について

私たち家族はドイツに住んでいるので、私が何もしなければ、子供たちは日本語を使う機会はほとんどないことになります。しかし、先の理屈から、私は自分の子供に日本語教育を施すことは義務であると捉えています。

私の息子は日本に住んだこともなく、就学前で、まがいなりにも「ひらがな」を書けるのですから、順調にいっているようにも見えますが、私は楽観視していません。

私の住んでいる町は人口10万程度の(ドイツでは)中規模都市ですが、町にはちらほら日本人も住んでおり、子供のいる家庭もあります。先の考えのもと、彼らに寺子屋のようなものをやらないか提案しているのですが、あまり食いついてきません。

日本に帰る予定がないために、子供に日本語教育を受けさせる必要性を感じない、もっと言えば日本語教育を諦めているということなら、それは家庭の事情であり、教育方針なので、私がとやかくいうことではありません。他方で、「日本語はできるようになってほしい」と言いながら、そのための環境を整えようとしないというのであれば筋が通らないでしょう。

私が何度か耳にした言い回しは、「まだ早いと思う」「そのうち」といったものです。言語を習得するのは早ければ早い方がよいはずです。また、学校に上がるようになれば、忙しくなります。学年が上がれば上がるほど忙しくなっていきます。スタートを遅くするメリットがあるとは私には思えません。

また、特に両親とも日本人の家庭の場合には、「家では日本語を使っているから、日本語に関しては心配していません」と言うような人がいます。確かに両親とも日本人であれば、家庭の会話は100パーセント日本語なので、子供の会話力はそれなりに上手になると思います。しかし、もし親としか日本語で話さないとなると、たった二人の大人が使う偏った表現しか身につかないことになります。友達と話すような砕けた表現や、外で使うような敬語などは身につきません。また、読み書きはどうするのでしょうか。親が自分ですべて教えるつもりなのでしょうか。

どうも話をしていても、正直あまり真剣に考えていない(義務と捉えているとは思えない)印象を受けるのです。

誓い

私はとりわけ父親から強い影響を受けて、カント倫理学に傾倒することなりました。私の父親はまさに義務から教育を施しているように見えるような人だったのです。詳細は近著『意志の倫理学――カントに学ぶ善への勇気――』(特に「はじめに」と第五章)に述べる予定なので、参照していただければと思います。

私は父親が私に施してくれたような教育を子供たちにしてやりたいと思っています。