他人の態度に物申すべきとき

相手の行動を批判するということカント倫理学

多くの人がすでに目や耳にしているのではないでしょうか。ある人(Aさん)がマスクをしていない人(Bさん)に注意したところ乱暴されて、Aさんは下半身不随になったというニュースがありました。

「マスクせえや言わんかったら」 暴行受け半身不随、男性の後悔 | 毎日新聞
 新型コロナウイルス禍でマスクの未着用を注意したことで暴行を受け、下半身不随の後遺症を負った男性(65)が、毎日新聞の取材に応じた。車椅子生活となり、「殺されたようなもの」と当時の恐怖を振り返りつつ、「迷惑をかける人を許せなかった。今は注意しなければよかったと思う」とも話した。

これだけの情報だけだとAさんが一方的な被害者のように見えますが、ネットを見ていると、Aさんの落ち度を指摘する声も見られます。なぜなら、①お互い屋外にいたこと、②両者はまったくの他人であること、③AさんはBさんに「マスクせいや」という命令口調で言った事実などがあったためです。

私の問題意識

確かに、Aさんにまったく非がなかったとは言えないかもしれません。しかし本記事ではあえてAさんに対して肯定的に、彼の行為が道徳的善であった可能性について探ってみたいと思います。

というのも個人的には、今の世の中がどちらかというと他人に無関心であり、それはそれで問題だと感じるからです。例えば(改めて調べてみたら、似たような事件がいくつもあることを知ったのですが、ここでは私が念頭に置いていたものだけを紹介すると)以前、電車内で女性が乱暴されているのに、他の乗客は見て見ぬふりをして、誰も助けようとしなかったという事件がありました。

滋賀電車内駅構内連続強姦事件 - Wikipedia

この事件が起きたときに私は哲学科の大学院生でした。学生同士の話でこの話題になったときに、そこにいたアリストテレス主義者(今は大学で教鞭を執っている)が「ぽっくんは腕力がないから何もしないでしゅ。強そうな相手に歯向かうのは無鉄砲と言うばぁい(つまり徳に劣る)」と発言する姿を強烈に覚えています。彼のような人は例外であって、多くの人は女性が助けを求めていれば、(本当に体が動くかどうかは別としても少なくとも)なんとかしようとするだろうし、すべきだと考えるはずです。そして、そんな人を突き放したような言い方はしないはずです。

では改めて、このマスクの件はどうなのでしょうか。考察を加えてみたいと思います。

Aさんの内面

私が関心を寄せるのは、Aさんがどのような理由で、Bさんを注意したのかという点です。

Aさん本人は「迷惑をかける人が許せなかった」と発言しています。しかし本当にBさんは他人に迷惑をかけているのでしょうか。仮にコロナウイルスに感染しているのにマスクをせずに、人の家に訪ねてきたのであれば、それは迷惑なことでしょう。他方で、屋外でマスクをつけずに歩いていること自体が直ちに他人に迷惑をかけていることを意味するとまでは言えないのではないでしょうか。

また私が解せないのは、Aさんが「当時はまだコロナとの向き合い方がはっきり分からなかった」と述べていることです。つまりAさんは、①コロナとの向き合い方が分かっていなかったのに、②マスクをしていない奴は他人に迷惑をかけていると決めつけていたのです。私にはこの①と②が両立するとは思えないのです。もしくは、①の意味は、当時はマスクをしないことは他人に迷惑をかけることだと思い込んでいた(当時はそれが正しいと信じていた)が、そのうちそれが誤解であることに気がついたという意味なのでしょうか。そう読めないことはありませんが、少し無理がある解釈だと思います(ただここには①Aさんが誤解を生む言い方をした、②記者の方が誤解した、もしくは③誤解を生む書き方をした可能性というのもあるかもしれません)。

またAさんは「日々の増減に一喜一憂していた」と発言しています。数値に振り回され、冷静な判断がしずらい状況に陥ってしまっていたという側面もあるのかもしれません。それに関連してAさんは「注意の仕方がきつかったのかもしれない」とも述べています。これもしっかり考えた上で発言したのではなく、その場の感情に任せて発言してしまったような印象を抱かせます。

情報が少ないので、断定はできませんが、カント的な普遍化の思考実験を経た上での道徳的善性があったとは考えにくいように思えます。同時に、もし冷静な判断が下せないような状態にあったのであれば、道徳的悪とも無縁であるということになりそうです。

まとめ

Aさんに落ち度があったとすれば、マスクの効用についてよく理解していなかった点や、ものの言い方といった点になろうかと思います。状況が変わって、例えば、それなりの人数がいる屋内でマスクをしない人がいれば、その人には声をかけるべきでしょう。

私が危惧するのは、この事件について知った人が、「やっぱり自分のことだけ考えていればいいんだよ!」「他人のやっていることがおかしいと思っても首を突っ込むべきではないんだよ!」と考えてしまうことであり、もっと言えば、本来すべきであったことをしなかった者がこの事件を言い訳の材料として使うことです。

本来すべきであることを自覚しているのに、分かっていないふりをして(自分自身を騙して)やり過ごすことをカントは「自分自身を煙に巻く不誠実」と表現します。そして、それを単なる悪ではなく、「根本的な悪」(das radical Böse)と見なします。なぜなら(なぜそれが根本的な悪であるかというと)、それが自分自身のみならず、他人にも、延いては組織・社会全体に広がっていくことになるからです。私たちには本来それを食い止める義務があるはずなのです。

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