出生倫理学 反出生主義編

人口が減っていくことの意味について考えるカント倫理学

前回の記事ではカントが、子供を生む・生まないに関して何を言っているのかという話をしました。

自分がどうすべきかということは、周りや自分の置かれた状況によって変わってきます。周りの状況という面では、今の日本は少子高齢化によって社会に多くの歪が出ています。現役世代、特に若い人たちに過大な負担がかかっています。その現状を少しでも改善させるために子供を生む努力をすることは道徳法則たりうるでしょう。ここで「自分ひとりが子供を生んだって…」と考えてはいけません。倫理というのは「自分ひとりくらい」という自分を例外視することを厳しく戒めるのです(このあたりをもう少し知りたい方は普遍化の思考実験を参照してください)。もし、その道徳法則を利己的な理由によってではなく、それが道徳法則であることを理由として行為した際には、そこに倫理的価値が認められるのです。 

他方で同じ思考実験をしても別の結論を導く人もいるでしょう。「こんな日本に生まれても子供が不幸になるだけ」と考える人たちです。もし彼らが将来生まれてくるであろう子供たちを苦しませないことを道徳法則と見なし、それを利己的な理由によってではなく、それが道徳法則であることを理由として行為したのであれば、そこには倫理的善性が存することになるのです。

カント倫理学によれば、いかなる行為も(子供を生もうとすることも、生もうとしないことも)倫理的善にも悪にもなりうるのです。では何よって倫理性が決まるのかというと、意志によって決まるのです。非利己的で純粋な意志のみが倫理的善なのです。

反出生主義

実際に、世の中には子供など生むべきでないと主張する人々が存在します。彼らの立場は「反出生主義」(Antinatalism)と呼ばれています。

その歴史は意外と古く、すでに古代仏教に見ることができます。また、その影響を受けたショーペンハウアーなどは、彼のペシミズムにもとづいて、反出生主義者の哲学を説いています。そして、現役でもっとも知名度がある論者は南アフリカのデイビット・ベネターであると思います。

日本でもすでに彼の翻訳本が出ています。

今回は、私たちと同じ時代に生きるベネターが、どのような論拠から反出生主義を唱えているのかについて見ていきたいと思います。

ベネターの主張

ベネターは以下のような問題提起をしています。

善良な人々は、自分たちの子どもを苦しみから遠ざけることに全力を尽くすものだが、興味深いことに、あらゆる苦しみを子どもに与えない唯一の方法は、そもそも最初から彼らを産まないこと(存在させないこと)であると気付いている人はほとんどいない。(ベネター『生まれてこないほうが良かった』)

要するに「親は自分の子供が苦しまないように願うのであれば、はじめから生まなければいいだろ」と言っているのです。

この文面からも窺えるように、生が苦しみに満ちていることを拠り所に話を進めるのです。生が苦痛であるために、それは悪なのであり、避けるべきものなのです。

だったら、すでに生まれてしまっている私たちも、すぐにでも死ぬべき(つまり自殺すべき)なのではないでしょうか?

確かにベネターは、理想の状態は人類が滅亡することだとしています。しかも、それは早ければ早いほど良いとしています。しかしながら、死には多くの場合、恐怖や苦しみが伴います。また他人を悲しませたり、迷惑をかけてしまう可能性もあります。それは苦を基準にすえるベネターからすれば受け入れがたいのです。そのため彼は、自死を推奨するようなことはしません。

人生は、存在してしまわないほうが良いと言えるほど悪いかもしれないが、存在し続けるのをやめるほうがよいと言えるほどは悪くはないかもしれないからである。(ベネター『生まれてこないほうが良かった』)

ベネターは「はじめる価値がない」と「続ける価値がない」を明確に区別するのです。一度生まれてしまったらやめる(死ぬ)のにコストがかかります。しかし、まだ生まれていないのであれば何らのコストもかからないのです。

彼が挙げている例を紹介すると、映画を観ていて途中でつまらないと思っても、映画館を後にするほどひどくはないと考え、留まることはありえます。コスト(料金)を無駄にはしたくないからです。しかし、その映画のつまらなさを事前に知っていれば、映画館にははじめから行かないだろうというのです。それならばコスト(料金)はかかりません。

そのためベネターは、私たちは生をはじめてしまった以上、今すぐに死を選ぶべきとまでは言えないが、新たな生は生み出すべきではないと説くのです。

ただベネターは、今すぐにすべての人間が生殖をやめるべきとまでは言いません。そんなことをしてしまえば今生きている人々の負担が過剰に増大することになるためです。

そこで疑問

話がここまで進むと、私のなかで疑問が沸いてくるのです。

ベネターはいったいどのくらいの出生率が望ましいと考えているのでしょうか?

私は本質的な問題だと思うのですが、私が知る限り、彼はこの問いに答えていません。答えられない理由があるのではないでしょうか。

例えば、少子高齢化が進む日本の出生率は、2020年時点で1.42です。およそ50年後には人口が3/2、80年後には半分になると予想されています。

ベネターはこれをよしとするのでしょうか?それとも不十分であるとするのでしょうか?

ベネターがどう答えるにしろ、先に触れたように、現実には日本は歪な世代構成によって現役世代に大きな負担がかかっています。ただでさえ負担に苦しんでいるのに、これ以上に出生率を下げれば、彼らの負担は一層増すことになります。

その道を実際に突き進んでいるのが、お隣の韓国です。2020年についに出生率が1を切ってしまいました。0.98です。韓国内の研究機関が、世界中でもっとも早く消滅する可能性の高い国と見なし、韓国人自身が韓国に生まれることを不幸だと考えているような事態に陥っています。

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経済は停滞し、失業率は高止まりし、世代間格差は広がるばかりで、若くて有能な人はどんどんと海外に逃げていってしまっています。私の知人にも、未来のない母国に見切りをつけてドイツに暮らしていることを公言する韓国人がいます。

自殺率や精神疾患の率が高い日本、それらの数値が日本よりもさらに高い韓国という構図は、社会的な歪さ(つまり、出生率の低下)が反映していると考えるのが自然でしょう。

そういった現実を真摯に受け止めれば、今生きている人たちが極力苦しまないようにするには、生まれてくる人の数を極端に減らすことは避けるべきなのではないでしょうか。例えば、オーストラリアの出生率は1.74で、ブラジルやデンマークは1.73です。このペースが続けば、人口は徐々に減っていきながらも、現役世代の負担は極端には重くなりません。しかし、これではベネターは「それでは多くの国にとって現状維持ではないか」「甘い」と言うかもしれません。

そこにあるジレンマと課題

このように考えていくと、ここにはジレンマがあることが分かります。―—極端に低い出生率を掲げると、現役世代に極端な負担がのしかかる理論を提示していることになり、反対に、月並みの数値だと何の目新しさもない現状肯定の主張となり、「反出生主義」という看板との乖離が生じてしまうのです。

反出生主義者を自称する者は、あるべき出生率の具体的な数値を示すべきだと私は思うのですが、実際には難しいのでしょう。しかしながら、もしそれができないのであれば「具体性に欠く」「説得力に欠ける」と言われても仕方ないのではないでしょうか。

最後にもう一点だけ

最後にもう一点だけ、ベネターの主張に対して言いたいことがあります。彼は子供を持つことは例外なくエゴであると言い切ります。

子供を持つ動機は利己的でしかありえない。(ベネター『生まれてこないほうが良かった』)

利己的都合で子供を持つ人はたくさんいるでしょう。しかし、全員がそうであるわけではありません。少なくとも私は違います。私は子供を持つよう努めることを道徳法則と見なして、それを理由として子供を持つに至ったのです。カントに倣って生きる者として、この点は絶対に譲れません。

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