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出生倫理学 | カントに学ぶ意志の倫理学

出生倫理学

Demographicsカント倫理学

前回の記事において、自ら命を絶つことの倫理的意味について考察しました。カントが倫理性は意志のあり方次第で決まると言うのであれば、自ら死を選ぶこと自体が倫理的悪であるという帰結は背理となります。

そもそも自らの命を絶つ人のほとんどは、もはや理性的判断ができないくらいに追い詰められた人たちだと思います。そうであるばらば、彼らの行為は倫理的善でも悪でもない、倫理性を問うことなどできないはずなのです。

傷つき、苦しみ、死以外の選択肢が選べなくなってしまった人に対して、倫理的悪のレッテルを貼るような考え方に私は与することができません。

ここまでは前回の記事の復習です。今回は死とは対極にある、生まれること、子供を生むことの倫理的意味について考えてみたいと思います。

カントの立場

カントの伝記には、彼がある時期から結婚しないことを行為原理としていたということが記されています。これは自分が子供を持たないことへの決意と受け止めることができると思います。

とはいえ、カント本人が語ったことではないので、信ぴょう性のほどは分かりません。

前回の記事において触れたように、仮にそれが本当であったとしても、そのことは私たちも結婚してはならない、そして、子供を持ってはならないことを意味しません。道徳法則というものは誰かが導いたものにみんなが従うようなものではなく、個々人が考え、各々が自分の判断で導くべきものだからです。

では私たちはどのようにして道徳法則を導くことができるのでしょうか。そのために有効となるのが普遍化の思考実験になります。自らの行為原理を私だけではなく、みんなが採用した世界を想像してみるのです。それが望ましいものであれば、それは道徳法則であり、採用すべきということになります。反対に、望ましくないのであれば、道徳法則に反するのであり、そのため採用すべきでないことになるのです。

これも以前に記事に書いたことですが、その際には自分の置かれた状況についても考慮に入れる必要があります。

続・続・みんながそれをやったらどうなる?
カント倫理学を研究している者の多くが、「純粋な形式的手続きから具体的行為の命令や禁止を導くことができる」などと主張します。しかしそう言っている彼らは本当にそんなことを信じているのでしょうか。もしくは、「私はカントをオウム返ししているだけで価値判断はしない」とでも言うのでしょうか。

もしそれをしなければ浮世離れした帰結が導かれることになります。例えば、状況を考慮に入れずに、みんなが子供を生まなくなった世界を想像してみた場合、たった100年で世界には人類が存在しないことになってしまいます。多くの人はそのような世界が望ましいとは考えないでしょう。他方で、人口爆発が起きて、食料不足に陥っている地域であれば、子供を今以上に増やさないことはむしろ望まれることなのではないでしょうか。

「普遍性」という用語の意味

カントは「普遍性」に信頼を置くのですが、この「普遍性」という用語がこれまで誤解されてきたのです。その誤解とは「普遍性」が「いつもでも、どこでも」「どのような条件下であろうと」を意味するという誤解です。

しかし現実には、いかなる状況であろうと「なすべきこと」または「してはいけないこと」など存在するはずがないのです。もし、そんなものがあるのであれば、(先ほどの話の繰り返しになりますが)誰かが、例えば、偉大なカント先生がそれらを列挙して、私たちはそれに従えばいいだけのことであるはずです。いかに行為すべきかについて個々人が考えることなど無駄な営みとなるのです。

実際のところ、まじめな顔をして、自殺は悪であるとか、約束を破ることは悪であるなどと発言するカント倫理学研究者は少なくありません。それがカント倫理学内部に致命的な矛盾をもたらす点、また(カント主義者以外の)世の中のほとんどすべての人が受け入れない主張である点をしっかりと見つめ、誤魔化さずに向き合うべきだと私は思います。

本来、「普遍性」という用語は「万人に妥当する」という意味を持つのです。それはカント倫理学に限ったことではなく、学問一般的に言えることです。一例を挙げると、三角形の内角の和は180度ですが、それは平面(ユークリット空間)という条件でのみ成り立つ命題であって、条件が異なり(非ユークリット空間では)、例えば、球体であれば三角形の内角の和は270度になります。だからといって「三角形の内角の和は180度」という命題に普遍性がないことにはならないのです。なぜなら、同じ条件のもとで・・・・・・・・、それは万人に妥当するためです。

私の立場

トニー・ブレアは首相就任演説において「英国における重要な課題は三つあります。それは教育、教育、そして教育であります」と述べました。教育が大切なのはその通りなのですが、その教育を受けるべき子供が少なく、どんどん減っていく一方では成果も半減してしまいます。

私は、日本における重要な課題は三つで、それは少子化対策であり、次に少子化対策であり、最後に少子化対策だと思っています(まあ、三つ目くらいは教育に置き換えてもいいかもしれません)。とにかく少子化にさえ歯止めがかかれば、労働人口の減少、国内消費の減少、税収の低下、国の負債の増加、高い失業率、年金額の減少(世代間不平等)、過疎化など、現在の日本が抱える様々な困難が改善の方向に向かいやすくなるはずです(「向かうはず」とまでは言いません)。

このような考えのもと、私自身は経済的に不安定な状態で、また自らの研究に費やせる時間が減ることは覚悟の上で、倫理的な理由から結婚して、子供も持つことにしました(ところが、当初は日本に帰るつもりであったものの、いつまで経っても帰れず、実質的には日本社会に貢献できていないのですが・・・)。

次回予告

私はそれが倫理的に正しいことであるという確信から子供をも受けました。ただこれは私がそう判断したというだけのことで、なかには別用に考え、判断する人もいるでしょう。つまり、子供も持たないことこそが倫理的義務であるという判断を下すということです。本人がそう信じて、非利己的な意志からそれを貫徹するのであれば、その行為は倫理的善であることになります。

次回の記事ではそういった(私とは異なる)立場にスポットライトを当てて、考察を加えてみたいと思っています。

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