悪についての記事を二つ続けて書いたので、次は別のテーマにしようかと思っていたのですが、悪に関するエピソードをひとつ思い出したので、やっぱりまた悪について書くことにしました。
前々回の記事において、一言で「悪」と言われるもののなかにも様々な悪性、例えば、道徳的な悪さ、結果の悪さ、卓越性における悪さ、運の悪さといったものがあること、そのため「悪」という言葉に引きずられて、本来別々のカテゴリーのものを並べて、「どちらがより悪いか」「どちらの悪がよりましか」といったような悪さ比べをすることはカテゴリーミステイクであり、慎むべきであるという話をしました。
ひょっとしたら「そんな誤謬は犯さない」と思った人がいるかもしれません。そこで今回は、私が実際に出会った、様々な悪を混同する誤謬を犯す人たちの話をしたいと思います。
私は日本に一時帰国したときに、古い友人と会って、近所のグラウンドで野球をしたことがありました。キャッチボールをした後、私がピッチャーをやって、友人がバッターをしました。私が投げたボールを友人が打ったのですが、そのボールは後方に飛んでいき、フェンスを越えて、民家の方に入ってしまいました。
すると間髪入れずに、「誰だ、コラー!」という大きな声がして、住人と思われる中年のおじさんが出てきました。その人はかなり怒っていました。とにかく怒り過ぎて、何に怒っているのかよく分からないような状態でした。今から考えると、おじさんはしょっちゅうボールが飛んでくるので霹靂していたのかもしれません。
友人が変な方向にファウルボールを打ってしまったのは、彼の卓越性の欠如に起因します。とはいえ、絶対にファウルを打たない人などいません。そこでファウルを打ってしまったこと、また、そのボールが民家に入ってしまったことは運が悪かったと言うこともできます。友人が非難されるとすれば、これら卓越性の不足と運の悪さという二点であるはずなのです。
ところが、その怒り狂っているおじさんは、どうもそこで野球をしていたことが気に食わなかったようなのです。しかし、私たちは子供の頃からそこで野球をやっていて、それまで誰からも文句を言われたことなどありませんでした。そのことを告げるとおじさんは、ここで球技はしていけないことを断る張り紙があったはずであると言うのです。しかし、私たちは入ってくるときに気がつきませんでしたし、グラウンドを立ち去るときにも確認してみましたが、やっぱりそれらしいものはありませんでした。
グラウンドは本当に球技禁止であり、張り紙も貼ってあったのに外れてしまった、もしくは外されてしまったのかもしれません。しかし、そうであれば、私たちは球技をしてはいけないという決まりについて知る由がなかったことになるので、野球をしてしまうのも無理からぬことなのではないでしょうか。
とはいえ、繰り返しになりますが、卓越性や運に関して私たちの方に非があったことは確かなので、とにかく何度も頭を下げて謝りました。するとおじさんの怒りは徐々に収まってきました。
おじさんは少し冷静になってきたところで、私の来ていたTシャツの柄が目に入ったようで、「そのTシャツは何だ?」「南三陸と書いてあるのか?」と聞いてきました。私は、東日本大震災後にボランティアに参加し、復興支援になるというので購入したことについて説明しました。すると彼は「なんでそんないいことをする人間が、こんな悪いことをするんだ」と言ったのです。
はじめから、おじさんの話を聞いていても、具体的に何を問題視しているのか(どこに悪性を見出しているのか)よく分からなかった(伝わってこなかった)のですが、私たちだけではなく、おじさん自身もよく分かっていないことがもはや決定的であるように思われました。
ボランティアをするかどうかということは適法性に関わることです。適法性の意味については以下の記事を参照してください。
ある行為に適法性が認められることと、とんでもない方向にファールボールを打ってしまう技術的な落ち度や、民家にボールが入ってしまったことの運の悪さは何の関係もないのです。おじさんは「何で?」と言うけれど、そこには何らの不整合もないのです。
以上の出来事は、私が大人になってから経験したものなので、おじさんの言動のおかしさに気がつくことができましたが、子供の頃を思い返してみると、何が悪くて大人に怒られているのかよく分からないことが間々ありました。
関連することはすでに筒香選手のインタビューに絡めて書きました。
私が経験したことがあるのは、(似たような話はいくらでもありますが)例えば、部活で指導者が「俺は怒っている。その理由を自分たちで気がつくまでダッシュしていろ!」と言うのです。途中で、足がつって走れなくなる者、吐いて倒れ込む者などが続出しました。私を含めて最後まで残っていた者は三時間くらい走り続けていたと思います。しかし結局最後まで、その指導者が何に怒っていたのか、そして、私たちのどこに・どのような落ち度があったのか分からず仕舞いでした。これでは、そこに何らかの教育的成果があるとは私には思えないのです。
大人が子供の行為に何らかの悪性を見出したのであれば、それがいかなる悪なのか子供が自覚できるように促す必要があるのではないでしょうか。
私自身、自分の子供と接するときにはその点を意識するようにしています。例えば、私の息子は他の子供と喧嘩することがあります。喧嘩すれば周りの大人は止めて、双方に謝らせようとします。謝ること自体はとても大切なことだと思います。ただ本人がどこに問題があったのか自覚していないのであれば、子供は何も学ぶことがなく、同じ過ちを繰り返すのではないでしょうか。私は子供が謝ったとしても、「何について悪かったと思っているの?」「何について謝っているの?」と問うようにしています。その問いに答えられないことが少なくありません。答えられないのであれば、答えられるまで考えさせるようにしています。
とはいえ、四歳児の息子とは最後まで会話がかみ合わないこともしばしばであり、息子がどの程度理解しているのか分からないことが多いのですが、辛抱強く接していくつもりです。