コロナウィルスのせいでずいぶんと窮屈な生活を強いられています。息子たちが通っている幼稚園は閉鎖されました。身近に親も親戚もいない私たち夫婦は誰に頼ることもできません。少なくともどちらかが子供たちの面倒を見なければなりません。
ということで、子供たちとどのように過ごせばよいのか毎日頭を悩ませます。家の中でできることもありますが、一日中家の中にいるわけにもいきません。公園で遊ばせたいところですが、公園はどこも立ち入り禁止となっています。
どこいこっか?
コロナのいないところ。
私の取った行動
ドイツの都市はどこもそうですが、少し足を延ばせばそこには自然が広がっています。そこで先日、森へ行って、散策してきました。森の中なら(ほとんど)人がいないので、ウィルスに感染するリスクも少なく、誰にも文句は言われないだろうと考えたのです。
森は最寄りの駅から、電車で20分くらい行ったところにあります。その電車というのは、単線のローカル線で、普段からあまり利用客はいません。加えて今はコロナウィルスの影響で仕事も学校も休みなので、私たちが乗った当日は車内に二、三人ほどしか人は乗っていませんでした。
森に着いてからも、散策している間に見た人影は、両手に収まるくらいでした。とにかく見渡す限り自然、自然、自然です。まあ、健康的なこと♡
思わぬ異論を受ける
その後、ある人(仮にAさん)に何気なく、電車に乗って森に散策に行った話をしたところ、彼は遊び目的で電車に乗るのはどうかと思う、と苦言を呈したのです。
それってどうなの。
Aさんは「自分だけがそう考えたら、確かにそうかもしれないけれど、みんながそう考えたら、電車はいっぱいになってしまうだろう」と言ったのです。
私の立場
そのAさんというのは、カント主義者でも何でもないのですが、実はこのような「みんながやったら、不都合が生じる」という理屈は、カント倫理学者が好んで持ち出す論法なのです。彼らは「カントが言わんとしていることは、行為原理が普遍化された際に不都合が生じるようであれば、その行為原理は採用すべきでないということである」と説くのです。確かに、みんなが同じ森に散策に行ったり、同じ電車に乗ったりする世界を想像してみると、不都合が生じます。
しかし、少し考えてみれば分かることですが、こんな思考実験をしていたら、ほとんどすべての行為が許容されないことになってしまいます・・・。ここで高名なカント倫理学研究者であるバーバラ・ハーマンの挙げている例を借用して説明してみたいと思います。
例えば、日曜日の朝10時にみんなが教会に行くことが分かっているとすれば、その時間にテニスコートに行けば貸し切りのような状態になります。しかし、みんなが同じことを考えて行動したら、とんでもないことになります。というか、みんなが同じテニスコートに入ることなど物理的に不可能でしょう。ということはAさんは先の理屈を適用して、「朝10時にテニスコートに行くのは倫理的に悖る」と言うのでしょうか。きっと言わないでしょう。
このハーマンの挙げる例に出てくる行為者は、日曜日の10時に人々がテニスをしないことを知っており、その上でその時間にテニスコートに行く決断を下しているのです。その事実を捨象して思考実験をしても、おかしな帰結しか導かれないのです。私が電車に乗ったケースについても同様です。
問題の根深さ
繰り返しになりますが、普遍化の思考実験について(行為者のおかれた状況を無視して)特定の行為を万人が則った場合の単なる形式や論理のみを扱うものとして論じられることは少なくありません。中島義道氏はそういった傾向に対して異論を呈しています。
多くのカント倫理学を研究している者が、カントにおける道徳法則とは純粋な形式であると真顔で主張しているが、純粋な形式から倫理学が打ち立てられるはずがない(中島義道『カントの「悪」論』)
多くの哲学者は(カント学者も)カントの道徳法則は形式のみであり、内容を含まないと信じているが、それでなぜ道徳が成り立つのか、不思議に思わないのだろうか? 文字通りの形式とは論理学であって、思考の規則であって、矛盾率や同一律から道徳が成り立つわけがない。(中島義道『悪への自由』)
私は、カント自身が道徳法則が純粋な形式的手続きによって導かれうるものであると信じていたのではないかと疑っていますが、もし本当にそうであるならば、そこにカントの限界があったと見るべきでしょう。
もし道徳法則そのもの、また、その導出が純粋な形式的手続きのみによって可能であるならば、(特定の公理系の上で)数学や論理学のように一義的で明確な「正解」「不正解」が存在することになります。1+1=2が正解で、1+1=3が不正解となるようにです。ここに個人の自由裁量の余地はありません。つまり個々人が普遍化の思考実験などする必要などなく、頭のいい人がみんなが何をすべきでないのか導き、私たちはそれに従っていればいいことになるのです。当為は自分で導くべきことを説く(カント本来の)姿勢と相いれないことになります。
またカントの良心論とも整合性が取れなくなります。この点についてはすでにまとめたことがあるので、関心のある方はそちらを参照してください。
ここにも簡単にまとめると、カントに言わせれば、良心というのは(少なくとも主観的には)誤りを犯すなどといったことはありえないのです。同じことですが、人は道徳判断を誤ることなど考えられないのです。もし道徳判断に「正解」「不正解」が存在し、それが論理的に導かれると仮定すると、その前提(つまり良心や道徳判断は誤りえないという前提)が崩れてしまうのです。
自分が何をすべきか、または、すべきでないかについて「正解」が存在し、そこに至ることができないような(愚か)者は道徳的善をなすことができない、それどころか悪を犯してしまうなどといった解釈は、「道徳的善とは、能力がなくとも、才能がなくとも、知識などなくとも、意志さえすれば誰もが必ずできる」というカント倫理学の根幹をなし、かつ、大きな長所となる部分を否定することになってしまうのです。私は絶対に受け入れることができません。
結論
この問題に関しては次回の記事以降も引き続き論じていくつもりです。また自著においても論じているので、興味のある方は、『意志の倫理学 カントに学ぶ善への勇気』の第三部、第八節を参照してください。