オンライン講座のお知らせ

2025年1月10日よりNHKカルチャーセンターにおいて「カントの教育学」をテーマに講座を持ちます。いつも通り、対話形式で進めていくつもりです。とはいえ参加者の方の顔が出るわけではありませんし、発言を強制することもないので、気軽に参加してください。
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利己性の危険性について

Selfishness and self-happiness カント倫理学

コロナ・パンデミックによって学生との接点が減り、そのため久方なかったのですが、先日久しぶりに、学生の悩みを聞かされました。大学で仕事をしていると、こういうこともあり、それも仕事の一部だと考えるようにしています。

ときにはウィトゲンシュタインとラッセルの関係のように、「もう死にたい」と言い出す学生に出くわすこともあります。

そういった学生用の対策マニュアルがあったり、専門に対応してくれる人でもいてくれればよいのですが、少なくとも私の奉職する大学にはそんなものありません。教師それぞれが考えて慎重に対応する他ないのです。

ところで学生の話を聞くていると、よくあるパターンがあります。それは本人が「こうあるべき」と思い込んでいるイメージがあり、その通りにいかないことで嘆き、苦しんでしまっているというパターンです。

本人には、はっきりとは言いにくいのですが、私は原因は本人の自己愛にあると見ています。自己愛がその人の思考を硬直化させたり、思考を妨げたりしてしまっているのです。

自己愛は本当に幸福に資するのか?

カントはある種の利己性を排除すべきことを説きます。このような自分の欲求を追い求めることを戒める姿勢は、例えば、フリードリッヒ・シラーなどによって「厳し過ぎる」「禁欲的」などと言われ、批判されてきました。

確かにカントはある種の利己性を排除すべきことを説きます。しかし、そこで言われる利己性とは、自身の幸福に資するような類のものではなく、反対に、その足かせになるものなのです。

では、どのような利己性がそこに含まれるかというと、主に二つ考えられます。ひとつは道徳性に反するようなもの、そして、先に指摘した、思考を硬直化させる、さらには思考そのものを妨げるようなものです。

先の学生の話に絡めて言うと、彼は「こうあるべき」という思い込みを持っており、そのとおりにいかないことを嘆き、苦しんでいたのですが、こちらがそこに拘る理由を彼に尋ねると、「憧れがあるから」と答えたのです。しかし、私に言わせれば、その学生は「憧れ」というなんだからよく分からない抽象的な感情に囚われ、理性的な考察ができない状態に陥ってしまっているのです。

この「憧れ」というのが(本人が感情に流されてしまっている以上、そのことを自覚していない可能性の方が高いと思いますが)自分がそれを達成することが自身の幸福に資することを前提にしているのです。しかし実際のところ、それが実現したとしても、まったく自身の幸福に結びつかない可能性だって十分にあるのです(この場合は最悪で、自分の希望が実現しても、しなくても、先は暗いことになります)。反対に、「憧れ」であり、「こうあるべき」という希望が実現しなくとも、その先でうまくやり、幸福を感じられるという可能性だってあるのです。そのため、カントは以下のように言うのです。

要するに、人は何らかの原則に従い、十分な確実性を持って、何かその者を真に幸福たらしめるかということを決定することはできないのである。(カント『人倫の形而上学の基礎づけ』)

道徳的な命令は確実に道徳的善に結びつくため「命令」(Imperativ)と呼びうるものの、何が自身の幸福に結びつくかということに関しては確実なことが言えないために、それは「命令」にはなりえず、せいぜい「規則」(Regeln)や「助言」(Ratschläge)に過ぎないのです。だからカントは自身の幸福を追い求めるようなことを人生の最終目的にすべきでないことを説くのです。

何が自身の幸福につながるかということは誰にも分からないのであり、本来分かるはずのないことを、あたかも分かっているかのような態度で決めつけることは、理性の越権行為であり、独断論であり、誤謬なのです。当然、戒められることになります。

ではどうすればよいか

私は先ほど「思い込み」という言葉を使いましたが、カントの用語で言えば「信じ込み」(Überredung) について、彼は「仮象」(Schein)に過ぎないと述べています。「仮象」とは、漢字を見て分かるように、正しくない仮の象(イメージ)のことです。そういった思い込みであり、仮象を打破するためには、徹頭徹尾、自分の理性を用いて、批判的な吟味を加える他ないのです。

仮象が、理性との間の矛盾を通じて暴露されることがないならば、この仮象は真実を反映していないことが気づかれないままとなるであろう。けれども、それに気づかれることによって、理性はこの仮象に対して、何からそれは生じるのか、いかにすればそれは除かれうるのかを吟味するように強いられる。そうしてこのことはただ純粋な全理性能力の完全な批判によってのみ行われうるのである。(カント『実践理性批判』)

自己愛とは主観的なものであり、主観的な視点に留まっている限り、なかなかそのくびきから逃れることはできません。一歩引いて、客観的な視点から自分を眺めているのです。そのうえで、どうしてそこに拘っていたのか批判的に吟味してみるのです。もし囚われる理由がないのであれば、苦しむ理由もないはずなのです。自己愛といった主観的な感情は、客観的な理性によって超克されうるのです。

さいごに

私自身も偉そうなことは言えなく、利己的な感情に囚われてしまっていないか、しばしば自問するようにしているのであり、時にはハッとさせられることがあります。その都度、「あぶない」「あぶない」と、一歩引くのです。