前回の記事において、バイエルン・ミュンヘンのキミッヒ選手がワクチン未接種であることに触れました。あれから状況が変わり、ドイツでは感染者がものすごい勢いで増えていきました。そして、とうとう最多感染者数を記録してしまいました。
主な理由として以下の二つが考えられます。ひとつはワクチン接種が頭打ちになっていることです。国民の三分のニは接種しましたが、そこからなかなか増えていかないのです(国民のうちの三分の一が拒否しているということではなく、これはなんらかの理由でワクチンを打てない人やワクチンを打つメリットがあまりない子供も含まれています)。ドイツは日本よりもずっと早くワクチン接種をはじめて、進んでいると思っていたら、アッと言う間に日本に追い抜かれてしまいました。前回の記事に書いたようにキミッヒ選手のようにワクチン接種を拒否している人たちがいるためです。
二つ目の理由は、ドイツ政府の対応です。政府はロックダウンどころか、規制をどんどん緩めてきました。今が寒くなっていくタイミングということも相まって、これでは感染者数が増えるのは当然と言えます。
ワクチンを接種しない人の言い分
前回の記事では、キミッヒ選手が用語を理解せずに使っていること、そして、何年も経ってから悪影響が出ることを懸念する発言をして、ピント外れの発言であることが多くの専門家から指摘されたことについて触れました。
それに関連してよく言われるのが、「(打つか、打たないかは)個人の自由である」という言い分です。この辺りは、アメリカがもっとも多くの感染者を出していること、もっとも多くの反ワクチン派がいることとも関わっていると思います。
ドイツはアメリカほどではないにしろ、日本以上に反ワクチンの活動が盛んであることは確かだと思います。私の周りにも、それほど極端ではないにしろ、ワクチンを打たない人、そして、「個人の自由」を主張する人がいます。
本当に個人の問題なのか
しかし、本当にこれは「個人の自由」「個人の問題」として片づけられることなのでしょうか。たとえ感染者が増えていかなくとも、微増や高止まりであったとしても、近いうちに政府が規制をかけていくことが予想されます。
現在大学では対面授業が行われていますが、またオンラインに切り替わるでしょう。そうなれば学食も確実に締まります。図書館まで締まるという可能性は低いでしょうが、最初のロックダウンでは閉鎖され、非常に不便だったので勘弁してほしいです。
私たち(家族)にとってさらに困ることは、小学校や幼稚園が閉鎖されることです。子供を抱えながら、仕事をしなければならないことになります。親は大変になりますし、子供は教育を受ける機会が奪われることになります。ワクチン接種を拒否する人たち、ましてや、自分たちには小さな子供がない人たち(そしておそらくその人たちには幼稚園や小学校が閉鎖されることがどれだけの負の影響をもたらすかということが想像しがたい)が「個人の自由」などと発言しようものなら、「じゃあ幼稚園や小学校が閉鎖されたら子供の世話と教育はあんたたちがボランティアでやってくれよ」という話です。「自由」を盾にとるからには義務や責任も背負ってほしいのです。
もっと言えば、私の都合に関係なく、社会全体を見てみると、すでに病院をたらい回しにされている人や、手術を先延ばしにされている人たちが出てきています。誰にそんなことをする自由があるのでしょうか。
自由と法について、カントに鑑みて
カントは「法の普遍化の思考実験」の定式として、つまり法律論として、自由について以下のような考え方を提示しています。
いかなる行為にせよ、その行為が、あるいはその行為の行為原理に従って、各人の選択意志の自由が、何人との自由とも普遍的法則に従って両立しうるならば、その行為は正しい。(カント『人倫の形而上学』)
小難しい言い方がされていますが、要するに、行為は他人の自由を侵害しない限りで許されるということが語られているのです。別の言い方をすると、他人の自由を侵害するような振舞いは法によって規制されるべきということになるのです。
ドイツでしばしば議論になるのは、ワクチン接種を法的な義務とするかどうかということです。しかし反ワクチン派が裁判に訴えた場合に、敗訴する可能性があるために政府は二の足を踏んでいるのです。次に考えられるのは、イタリアやフランスのように医療従事者や老人ホームで働いているような人に限定して課すことです。とはいえ、こちらも敗訴になる可能性はゼロとは言えず、また、ワクチンへの拒否感から離職する人も極僅かながら出てくるであろうことを頭に入れなければなりません(例えばフランスでは、この法案によって、0.6パーセントの医療従事者が離職しました。これを「多い」と見るか、「少ない」と見るか…)。
もう少しハードルが低いのは、以前のように行動規制をかけることです。ただ、すぐに大学、学校、幼稚園といった公共性の高い場所に規制をかけるのではなく、まずはプライベートや娯楽において大人数で集まることを規制すべきでしょう。私は毎晩ジョギングをしているのですが、金曜日にジョギングすると、「ああ、今日は金曜日だな」と分かるのです。なぜなら、いたるところでパーティーをしているからです。窓越しに、若者が狭い空間で密集して、酒を飲みながら、大声で話しているのが見える度に、「これじゃあ、感染数が増えるのも無理ないわ」と(あきれ半分に)思うわけです。
客観的事実
現に病院でコロナウイルスと戦っている医師や看護師などは大変な思いをしているのです。その原因を作っているのは、繰り返しになりますが、ワクチン接種を拒否している人たちなのです。以下の図を見てください。
以下にドイツの三つの州のワクチン接種済みの感染者(青)と未接種者の感染者(赤)を比較したグラフを張っておきました。ワクチン未接種の人が、(本来は母数がずっと多いはずの)接種者に比べて、コロナに感染するケースが圧倒的に多いことが見て取れます。繰り返しますが、圧倒的です。これでワクチンを拒否する側は「他人の自由を侵害していない」「予見することもできなかった」と言えるのでしょうか。
また先日私が視聴したトークショーのURLも貼り付けておきます。
ここに「哲学者」と言われる人が参加していて、まさにワクチンを打たない自由について語っているのですが、そこに参加しているウイルスの専門家、医者、政治家といった実務家から(加えて、司会者からも)、コテンパンにやっつけられています。哲学をやっている人には、理屈を振り回す頭でっかちな人が多いのですが、その典型のような人物で、心底「ああはなりたくない」と思いました。
結論
平常時であれば「個人の自由」を叫ぶのは結構だと思います。それどころか、たとえコロナ禍であっても、感染者数が減少傾向にあるのであれば、個人的には否定しようとは思いません。しかし今はもうそう言っていられない段階にきているのです。「自由」を叫び、それを行使することが、他人に実害を与え、死に至らしめる現実の中に私たちは生きているのです。