本ブロブは倫理について云々する場なので、もちろん倫理の話をしますが、(ここのところ多いですが)まずは野球の話から入りたいと思います。その理由は、①今回もアリストテレスに端を発する徳倫理学についての話で彼自身がスポーツを例に挙げて説明しているため、②そこに適切な例を見出せるため、そして、③個人的に訝しく思う気持ちが強いためです。
ピッチャーに本当に慎重さが欠けているのか
よく解説者と言われる人たちが、打たれたピッチャーに対して「慎重さが足りない」「ボールをスーと(?)投げてしまっている」などと表現します。しかし、私にはまったく言明の意味が理解できません。
なぜ彼らはピッチャーに慎重さが欠けていたと断定することができるのでしょうか。例えば、球種に現れるのでしょうか。ストレートだと慎重だとか、カーブだと慎重だとかといったことでしょうか。いや、そんなことはないはずです。では、コースでしょうか。真ん中に投げるのは慎重ではないということなのでしょうか。しかし、普通は真ん中を目がけて投げようとはしないはずです。ピッチャーとしてはコースを狙っているものの、単にコントロール不足で真ん中にいってしまっているに過ぎないのではないでしょうか。だとすれば慎重であったかどうかは関係ないはずなのです。
もっとも場合によっては本当に慎重さが欠けていたためにコースが甘くなってしまったということも考えられます。例えば、3ボール・0ストライクであったならば、慎重さを欠いて真ん中を目がけて投げて痛打されてしまうということもあるでしょう。しかし実際のところは、グラウンドの外から見ている、投げたピッチャーから直接話を聞いたわけではない解説者が、本人に慎重さが欠けていたかどうかなどといったことについて、そして、(後付けの結果論ではなく、投げる前に)どうすべきであったのかについて分かるはずがないのです。
それに関連して、仮にピッチャーに慎重さが欠けていたとします。では、それを克服するためには具体的に何をしたらよいのでしょうか。この点を明らかにしなければ、言明は抽象的過ぎてほどんど意味をなさないと思うのです。
バッターは本当に消極的なのか
次にバッター目線の例を挙げてみたいと思います。バッターが初球の真ん中付近のボールを見逃したり、連続でストライクを見逃したりすると、解説者と言われる人が「積極性がない」「消極的」などと言います(批判します)。しかし実際には、スイングしないことが直ちに積極性のなさや消極性を意味するわけではないはずなのです。
ボールを見逃す場合、狙っていたコース、もしくは球種と違っていたというのがほとんどだと思います。先ほどの繰り返しになりますが、確かに積極性が欠けていたために手が出なかったということもあるとは思います。しかし、遠く離れたところから見ていて、選手から話を聞いたわけではなく、ボールを見逃した理由が分かるわけがないのです。
むしろ特に相手が一流のピッチャーである場合、あれもこれも手を出すというのは得策ではなく、しっかりと狙い球を絞って対応すべきでしょう。相手のボールがどんなにすごくても球種やコースを絞っていれば、プロ同士であれば、ある程度は対応できるであろうためです。そういった割り切りができることが「思慮深い」ということなのではないでしょうか。
人を助ける上での勇気とは
アリストテレス自身が徳に関してスポーツと絡めて説明しているので、彼に起源がある徳倫理学について道徳とは関係のない野球に絡めて論じましたが、以下に道徳性が関わる人助けを例に考察を加えてみたいと思います。
アリストテレスは勇気を徳目と見なします。しかしながら、彼の言う「勇気がある」「勇敢」とはいかなることなのでしょうか。
仮に大きな地震が起きて、津波が迫ってきているとします。目の前に助けを求めている者がいる一方で、しかしながら、まごまごしていたら私自身も犠牲になってしまいます。他人に手を差し伸べることは勇気のあることと言えますが、自分の命を大切にして退くことも勇気と言えます(東京オリンピック中止を叫ぶ人たちはよく「勇気を持って辞退を」という言い方をしていましたね)。だとすれば、私はどうすればよいのでしょうか。
このような、危険を冒してまで他者を助けにいくべきか、もしくは、自分の命を大切にすべきかというジレンマに陥った状況下の人間に、「勇気を持て!」「勇敢な行動を!」と言ったところで、言われた方はどうしていいのか皆目見当がつかないのです。
徳倫理学は特定の性格・性向を持つべきことを求めるものの、それだけでは具体的な行為が見えてこないため、長年この点が批判されてきました。ロザリンド・ハーストハウスはその反論として、(仮に自分自身は分からんくとも)自分が有徳と思う人がするであろう行為をすればよいのであって、それが指針となることを説いています。
彼女の立場について古田徹也氏は以下のようにまとめています。
しばしば次のような批判がむけられてきた。自分自身が徳を十分にそなえていなければ有徳な行為者が何をしそうなものか分からないのだから、そのような指令は役に立たない、と。
ハーストハウスは、この批判はまったく的外れだと指摘している。彼女が強調するのは、有徳な行為者ではなくとも、われわれは徳の目録を実際に列挙することができるということだ(古田徹也『現代倫理学基本論文集III』)
この後で例として、「正直」「慈善」「公正」といった徳目が挙げられています。これは古田氏自身の考えではなく、訳者の解説なので、持論を展開する場ではないものの、まったくおかしな説明であると言わざるをえません。
徳倫理学の困難は「有徳な行為者が何をしそうなものか分からない」という行為の取捨選択にあったはずです。しかし、その反論として「徳の目録を実際に列挙することができる」という性格・性向について論じても具体的な行為が見えてこない点はまったく解消されません。行為の取捨選択の話が性格・性向の話にすり替わってしまっているのです。
繰り返しますが、履行するのが勇気なのか、それとも不履行こそが勇気なのか、分からないから思い悩むのです。そこで「自分が勇気がある人を見習えばよい」「勇気は徳目であることは明らか」といった、どうとでも受け取れる抽象的な言葉を並べたところで、本人にとって何の助けにもならないのです。
何が問題なのか
私は「勇気を持て」という言明自体が無意味だとは思いません。問題はその「勇気」が何を指すのか分からない、いわば説明不足である点にあるのです。
先ほどの野球の例に絡めて言えば、「勇気を持て!その意味するところは一流投手相手にすべてに手を出すのは得策ではないために、狙い球以外は捨てる勇気を持て、ということである」という言明であれば、具体性が伴い、有意義な命題と言えるでしょう。
津波が迫ってきている例に絡めて言えば、例えば「「てんでんこ」という考え方がある。それはみんなが他人を気にしていたら犠牲者が増えてしまうので、個々人が自分の命を最優先にして逃げるべき、という考え方である。そうやって割り切る勇気を持て!」ということであれば、中身ははっきりしており、意味のある命題と言えます。
まとめ
簡潔に言うと「他者に指示や命令を出すのであれば、どうとでも受け取れるような表現だけではなく、具体性の伴ったものとすべき」という至極当たり前のことなのですが、本当にできているのかどうかというのは別問題であり、顧みてみる必要があるのではないでしょうか。