ロシアがウクライナに侵攻しました。このタイミングで戦争について論じないわけにはいかないと思い、筆を執ることにしました。
「カントの戦争論」と言えば、彼が晩年に記した『永遠平和のために』を思い浮かべる人が多いかと思います。その理念がその後、国際連盟として結実したことは有名な話です。またそこで展開された常備軍の廃止の主張も有名で、たびたび議論に上ります。そんななか、私が今回取り上げたいのは、(私の専門が倫理だからというのもありますが)倫理と政治との関係についてです。
日本でもしばしば議論になります。例えば、政治家が政治とは直接関係のない事柄、例えば、不倫、学歴詐称、飲酒運転・無免許運転などが発覚したような場合です。その政治家が糾弾され、停職や減給、下手をすれば辞職にまで追いやられることもありますが、その際、必ずと言っていいほど、「なぜ政治とは関係ない事柄で…」という人たちが出てきて、その政治家を擁護しようとする姿が見られます。
カントの立場
この点に関して、カントは現状において政治と倫理の間には不一致があることを認めています。しかし、それは本来あるべき姿ではなく、本来は一致するものであると考えられているのです。
カントは政治家は二種類に分けられると言います。一方は「政治的道徳家」と呼ばれ、単なる技術的課題のみを問題にするのです。道徳に関しては関心を示している振りをしているに過ぎないのです。他方は「道徳的政治家」と呼ばれ、こちらは道徳的課題に対峙し、実際に道徳的に振舞おうとするのです。両者の間には当然ながら天と地ほどの差があるのです。
カント倫理学における道徳的善とは、自分の利害に関係なく、それどころか不利益が生じるとしても、それが義務であることを理由としてなすことでした。カントに言わせれば、それは政治家にあっても同じことなのです。
道徳的政治家は、次のことを自らの原則とするであろう。すなわちそれは、予め避けることのできなかったさまざまな欠陥が国家体制や国際関係に生じた場合、どうすればそれらの欠陥が迅速に改善され、理性の理念のうちに模範として示されている自然法に適合するようになるかを考慮することが国の元首にとってそれが利己心を犠牲にすることであるとしても履行することが義務なのである。(カント『永遠平和のために』)
考えてみれば当然のことであって、私たちひとりひとりが道徳的に振舞うことが求められるのであり、政治家がましてや元首がその埒外に置かれるはずがないのです。
誠実性と公開性
カントが政治家の資質として重要視するのが「誠実性」と「公開性」という二つの互いに深く関わり合う徳目です。
カントは「誠実性」について以下のように言及しています。
誠実性はあらゆる政治に勝るという理論的な命題は、いかなる異論をも限りなく超越して、政治にとって不可欠な条件となっているのである。(カント『永遠平和のために』)
「誠実性」が政治家にとって不可欠な条件であることは読み取れるものの、ここで言う「誠実性」がどのようなことを意味しているのかは、これだけではよく分かりません。
そこで鍵となるのが「公開性」なのです。この点についてカントは以下のように述べています。
公開性なしにはいかなる正義もありえないし(正義というのは公に知らせうるものでなければ考えられないからだ)、いかなる法もなくなるからだ(法というのは正義だけによって与えられるからだ)。(カント『永遠平和のために』)
勘のいい人はすでにお気づきかもしれません。「公開性」というのは普遍化の思考実験(いわゆる定言命法)であるところの「普遍性」と重なり合うものなのです。そのことは「公開性」についての以下の言い回しによって、より明確になるはずです。
他人の権利に関係する行為で、その原則が公表性と一致しないものはすべて不正である。(カント『永遠平和のために』)
倫理学の文脈における、「普遍化を意欲できないような原則は退けられるべき」という言い分と非常によく似ていることが分かると思います。先の引用文の後でカントは、この定式は倫理的のみならず、法的なもの(この「法的」という言い方は『永遠平和のために』ではしばしば「政治的」とほぼ同義に用いられている)として考えるべきであるとしているのです。
で、プーチンは?
以上を踏まえた上でプーチンの姿勢を見てみると、どう映るでしょうか。彼のうちにカントの言う「誠実性」や「公開性」が見出されるかという話です。
プーチンは、ロシア国内では言論統制を引いて、戦争を(もちろん侵攻も侵略も)していないことになっているのです。そして、ウクライナに兵を送っているのは、ウクライナ東部のロシア系住民が弾圧され、民族浄化の対象になっているためだと報じさせているのです(ロシア以外でそんな報道をしているところはありません)。ここにはロシア国民に対する不誠実性であり、非公開性が存すると認めざるをえないように思えます。
国外に向けては、プーチンはウクライナに向けて軍備を拡張していながらも侵略、侵攻の意図はないと繰り返し発言していました。それを真に受けたドイツ「左翼党」のザラ・ヴァーゲンクネヒトはプーチンを擁護し、その直後に戦争がはじまってしまい、泥を塗られた格好になってしまいました(当然のように彼女は大炎上しました)。
プーチンはなぜ戦争を始めたのでしょうか。先ほど触れたように本人は「ウクライナに住むロシア系の住民が殺戮されている」などと言っていますが、だとすればその証拠を示すべきですし、百歩譲ってそれが事実だったとしても、それは一般市民が巻き添えを受ける軍事行動を起こしてもよい、ましてやロシア系の住民が多く住む東部から遥か離れた首都のキエフまで制圧してよい理由にはならないはずなのです。
プーチンを見ていると、と言うか、むしろ彼の姿であり真意がなかなか見えてこないからこそ、私には以下のカントの言葉が浮かぶのです。
私が口に出した瞬間にその意図が無に帰してしまうような原則、成功するためには秘密にしておかなければならないような原則、それを公表してしまうと私の計画に対してあらゆる人が反対するような原則、つまり、すべての人が私に反対することが必然的で普遍的であることがアプリオリに洞察されるような原則は、すべての人々を脅かす不正によって生まれたものなのである。(カント『永遠平和のために』)
フランスのマクロン大統領は電話会談の際にプーチンに対して「あなたは自分自身を騙している」と言い放ったそうです。言いえて妙であり、私にもそう映ります。プーチンには自分自身の胸に手を当てて省察してほしいと思います。