佐々木朗希投手が高校生の頃です。國保監督はあとひとつ勝てば甲子園という地方大会の決勝で、ケガを回避することを理由に、佐々木投手を登板させませんでした。当時は監督の判断に対して学校側に抗議電話が殺到する事態となりました。
その後プロに進んだ佐々木投手が先日、完全試合を達成しました。すると國保監督の当時の判断を称賛する意見が雨後の筍のようにわんさか出てくるではありませんか。私はものすごく違和感を覚えます。だって、もし何年も前の判断の妥当性がそこからもたらされた結果のみによって決するとすれば、それって完全に結果論じゃないですか。それでいいんですか。
カントの立場
カントは結果論を排除します。善いことをしようとして行為したのであれば、その行為は善い行為なのです。過去になした判断の道徳性が、もたらされた結果によって、後から認められたり、取り下げられたりすることはないのです。
同じように、判断の妥当性は、その判断の源泉となった根拠によって決まるのです。根拠がしっかりしていれば、その判断の妥当性は認めざるをえないのであり、その逆も然りです。
もし、もたらされた結果によって判断の妥当性が決まるのであれば、しっかりとした根拠にもとづいた判断であったものの、たまたま結果が伴わなかった場合に全否定されることになり、反対に、何の根拠もなく判断した行為にたまたま結果が伴った場合に全肯定されることになってしまうのです。それでいいのかという話です。
本来は「判断の中身に妥当性があるかどうか」と「結果が伴うかどうか」は区別して論じるべきでしょう。でなければ、「結果良ければすべて良し」「結果がすべて」という中身(哲学)のない、結果論に陥ることになります。そんな中身(哲学)のない発言をする人の話に耳を傾けようとは私なら思いません。
國保監督の判断の是非
國保監督は佐々木投手を登板させなかった理由として、「ケガをさせないために」と説明していました。これは一見したところ正論のように見えます。
しかし、すでに佐々木投手は7月18日(三回戦)に93球、中2日で21日(四回戦)に194球投げていました。直後に佐々木投手は肘に違和感を抱えるようになります。ところが、それでも國保監督は佐々木投手に中2日で24日(準決勝)に投げさせ、それも完投させ、123球も投げさせているのです。
一試合で200球近く投げさせたり、途中で肘に違和感を訴えた投手に7日間で416球も投げさせるという采配は、「ケガをさせない」という言明とは真逆にあると言えます。ちなみに体が出来上がっているプロでさえ、先発投手は一試合の投球数は120球を目安として、週に一度くらいしか投げません。成長過程にあった佐々木投手がこの時点で壊れていても何らおかしくなかったのです。「壊れなかったから正しい」「壊れていたら正しくなかったことになる」というのは、結果論でしかありません。
さらに言えば、國保監督は佐々木投手に25日(決勝)に投げさせないことを決めたのは当日だと証言しています。つまり、肘の違和感を抱え、短期間にこれだけの球数を投げ、前日完投している投手に、連投させることも考えていたということなのです。「常軌を逸している」と表現しても大げさではないと思います。
私は「常軌を逸している」とかなり強い表現を使いましたが、高校野球の世界は、それよりさらに常軌を逸した光景が広がっていたのです。ほんの数年前まで、ひとりの投手が一試合に200球以上投げ、県大会の予選から甲子園まで(ほぼ)ひとりで投げ抜くということが普通に行われていました。そして実際に多くの投手が、その後本来のパフォーマンスを発揮できない、選手生命が短くなる憂き目に遭ってきたきたのです。つまりその狭い世界においては國保監督は良い意味で常軌を逸していたとも言えるのかもしれません。
國保監督の采配は、判断の妥当性という点に絞れば、整合性の面でかなり無理がありますが、甲子園よりも佐々木投手の未来を優先した判断というのは、高校野球に一石を投じることになった非常に意義深い判断だったと言えるでしょう。
まとめ
今回のことで、たった一度短期的な結果が出ただけで、その過程にあった一つの判断を全肯定する人があまりに多いことを知ったことで私は違和感を持ったと先ほど表現しましたが、本心としては危機感すら覚えています。偶発性の伴う結果にすべての価値を委ねるのではなく、思考内容そのものに目を向け、分析し、価値判断を下す人が増えてほしいと願っています。