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アイヒマンの悪性について | カントに学ぶ意志の倫理学

アイヒマンの悪性について

アイヒマンカント倫理学

以前、記事に書いたことがありますが、私は息子によく「なぜそうしたのか?」と自分の行為の根拠について問うようにしています。

息子に伝えたいこと
私は目に見える結果や数字ではなく、子供たちの目に見えない内面に関心を払い、評価したいと思っています。そのためには私は彼らに自身の考えについて頻繁に問わなければならないことになります。

私は息子に自分で主体的に考えてほしいからです。

ではなぜ私が息子に自分の頭で考えるようになってほしいと願うのかというと、自分の行為の根拠が曖昧な状態で倫理的善をなすということは不可能であり、また、その根拠を強く意識することが倫理的悪を避けることにつながるためです。

しかし実際には、息子との会話がかみ合わないことや、息子が何を言っているのかよく分からないことも少なくありません。私が四歳児に求めすぎなのかもしれません…。

たまに息子が自ら選択した行為なのに、その理由を私に聞いてくるということがあります。例えば、自分から「サイコロゲームをしたい」と言い出したのに、しばらくしてから「どうして僕はサイコロゲームを選んだの?」と聞いてくるのです(笑)このようなやり取りをしているようでは、たとえそこに落ち度があったとしても責任は問えないなぁと思ってしまいます。

アイヒマンの悪性

とはいえ、前回の記事において紹介したアイヒマンのように、大量のユダヤ人を強制収容所に送る任務に就いておきながら、その倫理的意味について自覚していなかったことを理由に自らに責任がなかったことを説くという姿勢は受け入れがたいものがあります。

なぜ受け入れがたいのでしょうか。―—まずアイヒマンが四歳児ではないため、そして大量の殺人に加担したという事の重大性において、最後に「自分で言うか!」という点においてです。

本当に彼は自分のしていることの倫理的意味について理解していなかったのでしょうか。

アイヒマン裁判を傍聴したハンナ・アーレントは、アイヒマンの主張に沿うような形で、彼は考える力が欠如していたことを指摘しています。

犯された悪は怪物的なものでしたが、その実行者は怪物のようでも、悪魔のようでもありませんでした。〔中略〕アイヒマンは愚鈍なのではないですが、奇妙なほどにまったく「思考すること」ができないのでした。(アーレント『責任と判断』)

しかし、本当にそんなことがありうるのでしょうか。つまり、思考力が欠如しているために、それが倫理的な問いであることに思いが至らないままに無実の人々を強制収容所送りにする政策に加担するとったことがありうるのでしょうか。

私はこの点に関して懐疑的な立場をとります。というのも、彼の言明は明らかに矛盾をきたしているからです。彼は自分の行動の正当性を主張したい場合には、自分のしていたことの正しさについて確信していたと強弁するのです(興味深いことに、彼はそこでカント倫理学を持ち出すのです)。他方で、自分に責任がないことを説きたい場合には、ヒトラーや上官の命令は絶対的であり、盲目的に従わざるをえなかったことについて語るのです(いわゆる「歯車理論」を持ち出すのです)。彼の言明は根本的な部分において矛盾しています。

ただ言明が矛盾しているだけでは、アーレントの言うように、単なる思考力の欠如という可能性も考えられます。ここで注目すべきは、彼の言動にはひとつの原理が貫かれている点です。それは「自分の罪を認めなくない」「自分の責任を認めなくない」という原理です。その原理を貫徹する思考力は持ち合わせていたのです。

そうだとすれば、内心では罪を自覚していたのであり、そのため彼はありのままの事実を告げるわけにいかず、理屈を後付けせざるをえず、それによって言動が不整合をきたしてしまったと受け取るのが自然なのではないでしょうか。

このような自己欺瞞をカントは「自分自身を煙に巻く不誠実」(blauen Dunst vormachen)と表現し、根本悪につながる根深い倫理的悪と見なすのです。

悪の凡庸性

またアーレントの指摘するように、そこには誰もが犯しうるという側面、つまり凡庸性が認められるのです。

それは今を生きる私たちのうちにも起こりうるのです。

人がアイヒマンと類似の状況に身を置いたとき、容易に凡庸な悪を犯してしまうことは様々な心理学の実験(ミルグラム実験やスタンフォード監獄実験など)によっても実証されています。

ミルグラム実験 - Wikipedia
スタンフォード監獄実験 - Wikipedia

ちなみに、どちらも映画になっているので、興味のある方は観てみてください。

「私は絶対に人など殺さない」「ナチと一緒にするな」などと言う人もいるかもしれません。しかし、そうやって、「自分は大丈夫」「自分は違う」などと他人事として受け止めているほど危険であると私は思っています。机の上で考えている分にはそう言えるかもしれませんが、状況によっては誰もが思考停止に陥り、流されてしまう可能性があることを十分認識すべきなのではないでしょうか。

人殺しの例は身近でなく、ピンと来ないかもしれません。他方で前回の記事の冒頭に取り挙げたパワハラの例であれば、自分に関係のあることとして、より受け止めやすいかもしれません。パワハラをしている人ほど、「自分は大丈夫」「自分は違う」などと思っているか、そもそも何らの考えもなく、行動してしまっているのではないでしょうか。反対に、「自分もやってしまうかもしれない」「気を付けなければならない」と思い、意識している人ほど、自らがパワハラに及んでしまう危険性は低いのではないでしょうか。

さいごに

私は自らの研究している理論に則って生きようと努めていることを口にすると、他者から皮肉を込めて、「君は自分の言っていることをそのまま行動に移すことができているのか?」「自分のことを棚に上げてきれいごとを言っているんじゃないの?」というような言われ方をされることがあります。すでにブログ上で何度か断っていますが、私が倫理学を研究しているのは、カント倫理学が実り多いものであり、それを土台とした意志の倫理学のすばらしさを探求し、より多くの人に知ってもらうためです。ただ、それとは別に、私は自分が思慮を欠いたまま行動してしまうことがあること、そして利己的な感情を備えた、弱い存在であることを自覚しているからという側面もあります。自分が倫理的悪を犯してしまう恐れがあり、実際に悪を犯してしまうことがある。だからこそ、私のなかで倫理が切実な問題となるのです。その危機感を決して失ってはならないと思っています。

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