前回の記事ではベネターの反出生主義について扱いました。「生まれてくる子供が苦しい思いをするくらいなら、はじめから生まれてこない方がよい」という考え方は、相手を思いやる優しさに発していると言えなくもないのかもしれません。
そのベネターはビーガンとしても知られています。ビーガンとは、肉を食べないベジタリアンよりもさらに厳格で、乳製品や卵も口にしない人たちのことです。理由は人によって様々ですが、ベネターの場合は、牛や鶏が劣悪な環境下で苦しんでいるためです。そう考えると、やはりベネターはとても優しい人間なのかもしれません。
用語の確認
ビーガンはベジタリアンよりもさらに厳格と言いましたが、ビーガンよりもさらに厳格な立場もあります。フルータリアンと呼ばれる人たちです。字の如く、基本的にフルーツを中心に、あとは野菜・ナッツ・種などしか食べない人たちのことです。ビーガンは植物を(いわば殺して)食べるわけですが、フルータリアンは植物の命を絶つことは忍びないと考えるのです。
しかし、フルータリアンがフルーツを食べるにしても、そのフルーツは木からもぎ取られたものであれば、木は痛みを感じるかもしれません(本当に植物が痛みを感じるのかどうかについては諸説あります)。実際に、木は痛みを感じるはずであると考え、それを避けるために木から落ちたフルーツや、まだ命となっていないナッツや種などしか食べない人々が存在します。彼らは厳格なフルータリアンということになります。
分けようと思えば、もっと細かく分けられるのですが、ここでは大まかに四種類に分けておきます。
ベジタリアン | 肉や魚を食べない |
ビーガン | 肉や魚のみならず、乳製品や卵も口にしない |
フルータリアン | フルーツを中心に、野菜・ナッツ・種など、相手の命を奪うことにならないものしか食べない |
厳格なフルータリアン | 落ちたフルーツやナッツ・種など、相手が痛みを感じる可能性のないものしか食べない |
問題提起
日本ではまだ珍しいですが、ドイツでは少しでも人が集まれば、そのなかに必ずベジタリアンがいるというくらいにたくさんいます。私の周りにもたくさんいます。
彼らが自分の判断で食事のスタイルを決めて、実行することは構わないと思います。むしろ、何の意識もせずに飲み食いしている人たちよりも好感が持てます。
しかし、なかには動物がどれだけ残酷な扱いを受けているのかということについて滔々と説明して、相手の態度を改めさせようとする人たちもいます。このような姿勢には共感しません。
相手の立場を認めない姿勢は、自分自身の立場も認めない姿勢として、そのまま自分自身に跳ね返ってくると私は思っています。
もしベジタリアンが肉を食べる人に「生き物は痛みを感じるんだ」と批判することに正当性があるとすれば、そのベジタリアンはビーガンからの同じ批判を受け入れざるをえないことになるのではないでしょうか。そして、そのビーガンもフルータリアンからの同じ批判、さらに言えば、そのフルータリアンも厳格なフルータリアンから同じ批判を受け入れざるをえないことになるのではないでしょうか。つまり、彼ら(私たち)はみんな生き物を大なり小なり苦しめているのであり、その埒外にいるのは、厳格なフルータリアンだけということになるのではないでしょうか。
しかしながら、その厳格なフルータリアンにも批判が付きまといます。全員が実践するのは非現実的であるという批判です。落ちたフルーツや種だけ食べて全人類のお腹を満たせるわけがありませんし、たとえ量的に満たされたとしても、それだけではひとりひとりの栄養は偏ってしまいます。
(飲食に限ったことではなく)みんなが誰も苦しめずに生きていくことなどできないのです。だから、相手の苦しみに無関心でいてよいと言っているのではありません。むしろ、相手の苦しみに関心を払うべきなのです。だからこそ相手の立場を否定し、彼らを自分の側に取り込もうなどと考えるべきでないと言っているのです。
カントは何を言うだろうか
以前にも触れたように、動物の権利などという考え方が生まれる以前に活躍していたカントのうちに、動物を殺して食べることを倫理的な問題として捉えたような考察は見当たりません。
カントは倫理的に関わりのない問いがあることに言及し、その例として「肉を食べるか魚を食べるか」もしくは「ワインを飲むかビールを飲むか」といった問いを挙げています。これは推測ですが「肉」もしくは「魚」の個所が「植物」になっていようと「フルーツ」になっていようと、彼は同じことを言ったのではないでしょうか(つまり「倫理に関係ない」と)。
ただ、飲み食いに関わる問いの一切が倫理に関わらないということを言っているわけではありません。カントは例えば、痛風患者が飲食に関心を払うべきことは倫理的義務であると説いています。
カントが倫理に関係がない問いの例として挙げている「肉を食べるか魚を食べるか」という問いにしても、状況によっては、例えば、油分の取りすぎで、医者から肉を控えるように言われているのであれば、肉ではなく、魚を取るべきことは倫理的義務と言えるはずです。
ただ、どの程度肉を控え、魚を取るべきかということは個々人の判断に委ねられているのです。以下の文面がそれに対応するものと思われます。
この義務は単に広い義務である。それはそこにおいて多かれ少なかれ働く余地を有しており、それについての限界ははっきりとは設けられない。(カント『人倫の形而上学』)
自分の健康を保てるように努めることは倫理的義務たりうるでしょうし、それに関連して、何を食べ、何を飲むかといったこともやはり倫理的義務となるはずです。ただ、このような問いに関して、万人に妥当する「答え」「正解」というものは存在しないのであり、各人が自分の置かれた状況に鑑みて判断を下す他ないのです。
私の立場
私自身の立場について言うと、私は肉も魚も食べます。むしろ大好きです。ただ、何の意識もしないで食べるというのは違うと思っています。
そこで実践していることは、週に一日は肉や魚を口にしない日を設けることです。私のしていることは本当に微々たることです。しかし、少しでも自分ができることをすることが大事なのだと思っています。
ああ〜(ドイツにはない)焼肉屋に行きたい。