前回の記事では、カントは共苦の感情からの行為に道徳的価値を認めないという話をしました。なぜなら、共苦の感情に限らず、感情というのは一般的に自分でコントロールできるようなものでないためです。自分の意志ではどうもならない感情を抱いて行為できた場合には善であり、そうでない場合には善性が認められないとすると、道徳性は偶然に委ねられることになってしまいます。カントはそのような立場をとらないのです。
しかしそのことは、カントが共苦の感情に何らの価値も見出していないことは意味しません。今回はカント倫理学において、共苦の感情にどのような肯定的な役割が備わっているのかという話をしたいと思います。
共苦の感情の役割
カントは共苦の感情からの行為に道徳的価値が存しえないことを断った直後に以下のように述べています。
しかしながら、他人の苦しみを共にすることと、そして、また喜びを同じくすることとは、それ自身としては義務でないにしても、我々のうちに宿る共苦の自然的(感覚的)感情を教養し、それを道徳的原則および、それに即応する感情にもとづく同情への仲立ちとして利用するということは、やはり他人の運命に能動的に共感することであり、それゆえ、結局のところ、間接的な義務である。(カント『人倫の形而上学』)
カントは、さまざまなテキストにおいて、多少言い回しを変えて、①自分で考える、②他人の立場に立って考える、③自分のなかで首尾一貫性が保てるように考える、という三つの行為原則に則って考え、行動すべきことを挙げています。
しかし、もし仮にまったく共苦の感情(その方が分かりやすければ「共感感情」と表現しても構いません)を持てないような人がいるとすれば、その人は他人の立場に立って考えることなどできないでしょう。道徳的善をなすために、他人の立場に立って考えるためには、ある程度の共苦の感情を備えていることが前提となるのです。そのため、それを陶冶しておくことは「間接的」に道徳的善に寄与するということで、「間接的な義務」と称されるのです。
では、そのために私たちは具体的にどのようなことをすべきなのでしょうか。それは例えば、貧しい人、病人、罪人などといった社会的弱者に積極的に関わることです。それによって、人の共苦の感情は涵養されるとカントは言うのです。
私の体験
2015年から16年にかけて、アラブの国々から大量の難民がドイツを中心としたヨーロッパに押し寄せてきたときに、私は彼らと交流を深めるための集まりに参加したことがありました。それまで私は難民に対して、「貧しい国から来た貧しい人々」というイメージを持っていました。正直言って、あまり教養もないのではないかと思っていました。
ところが、彼らに実際に会ってみたらぜんぜんイメージと違ったのです。医者や弁護士や、なかには日本で自国の大使館で働いていたことがあるということで日本語が堪能な人までいたのです。そして、彼らの話を直接聞いたことによって、本当に大変な思いをして、ドイツまでやってきたことを知ったのです。彼らと触れることによって、見えてくること、気づくことがたくさんあったのです。
まさに間接義務として共苦の感情を陶冶することの意義を実感した体験となったのです。
まとめ
カントは感情に発する行為に道徳的価値を認めないため、カント倫理学は、極端に理性主義的であり、感情の役割を見過ごしている、または、過小評価しているといった受け止められ方がされ、批判されてきました。しかし、カントは共感感情をはじめ、それ以外の感情にも間接的な役割を認めているのであり、決して、感情の肯定的な役割を見過ごしているわけでも、過小評価しているわけでもないのです。
次回予告
ところでついさっき、学問のあり方について、少し変な記事を目にしたので、次回はそれについて書くつもりでいます。「倫理学に詳しい人」と、「倫理学者」の違いについて、といったところです。