(new!) オンライン講座の受講生募集

4月26日(金)から、NHKカルチャーセンターでオンライン講座を担当します。カントや倫理学に対する事前知識があっても、なくても構いません。対話形式で進めるので、みなさんの理解度や関心にそって講座を進めていきます。

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学問の有用性について

学問は役に立つべきか カント倫理学
「倫理学なんて研究して何の役に立つのだ?(そんなもん役立たないだろ!)」

というのはよく言われることです。最近それに関連する、少し変な記事を目にしました。

記事の内容

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記事のタイトルは(サムネイルが画像からも分かると思いますが)「“すぐ役に立つものを”の風潮の中、弱る日本の基礎研究 一般人が“推し研究者”を支援できるプラットフォームも登場」となっています。

その本文は、ノーベル賞受賞者の大隅良典教授による発言の引用と、それについての言及ではじまっています。以下のような文言です。

「“役に立つ”という言葉は、とっても社会をダメにしていると思っている」。これは純粋な知的好奇心で行う研究や基礎研究よりも、実用的で、すぐに役に立つ応用研究を重要視する風潮に警鐘を鳴らす、ノーベル医学生理学賞を受賞した東京工業大学 ・大隅良典栄誉教授の言葉だ。

短いですが、当該記事で触れられている大隅教授に関する記述は、これがすべてです。これだけを読むと、大隅教授が、「役に立つ」ということ自体を否定しているかのように読めます。

しかし、そうだとすると二つの疑問が生じます。一つ目の疑問は、タイトルとの不整合です。タイトルは、研究がすぐに・・・役に立たなければならないかどうかを問うものになっています。これは研究が役立つものであるべきこと自体は否定していません。「すぐに」でなければならないかどうかが問われているものと読むのが自然だと思います。二つ目の疑問は、この記事は本当に大隅教授の真意を伝えているのかということです。例えば、苦しんでいる人々を助けることができるような研究は役に立つ研究と言えるでしょう。そういった理念を持って研究に臨むことがけしからんことであり、反対に、自身の知的好奇心のみにもとづいて研究する方が望ましいと説かれているとは考えにくいと思うのです。

実際に大隅教授自身の言葉を見てみると、2016年10月3日のノーベル賞受賞会見で本人は以下のように述べています。

「『役に立つ』という言葉が社会をダメにしていると思っています。科学で役に立つということが、数年後に企業化できることと同義語みたいに使われているのは問題。本当に役に立つとわかるのは10年後かもしれないし、100年後かもしれない。将来を見据えて、科学を一つの文化として認めてくれるような社会にならないかなと強く願っています」(大隅良典)

これを読んで分かるように、大隅教授は、研究者が役に立つ研究をしようとすることを否定していません。そうではなく、すぐに・・・成果を求める風潮に対して苦言を呈しているのです。

記事を書いた著者は、まったく異なる二つの問い、つまり、「研究がすぐに・・・世の中の役に立つものでなければならないか」という問いと、「研究がそもそも・・・・世の中の役に立つものでなければならないか」という問いを混同しているのではないかという疑念を持ちました。そしてこの疑念は、記事を読み進めていくうちに確信へと変わっていきます。記事では、世の中には以下のような疑問があることが紹介されています。

「そもそも役に立たないものを研究してなんの意味があるの?」

「税金使って研究するなら結果必要でしょう」

前者は、何らかの役に立たせる意図をまったく持たずに研究すること(そのため実際に何の役にも立たないこと)が意図されているはずです。他方で後者は、何らかの形で役に立たせようという意図を持っているものの、結果にまだ結びついていない研究が含まれることになってしまいます。ここでも「そもそも・・・・役に立たせようと意図を持つべきなのかどうか」という話と、「(役に立たせる意図を持った上で)結果がすぐに・・・出るかどうか」という話が混同されているのです。

加えて、記事のテーマは研究が「役に立つかどうか」であったはずです。ところが、先の問いを見てもらえれば分かるように「結果〔が〕必要」と表現され、「結果が必要かどうか」の話にすり替わっているのです。この段階では、単に用語が変わっただけで本質的な問題意識は変わっていない可能性というのもあったのですが、残念ながら、というか、案の定というか、話は逸れていくことになります。

役に立たない研究は、研究資金を得ることが難しくなっているものの、近年はクラウドファンディングという方法もあるという話で、以下のような文面が出てきます。

サポーターとしても研究者の接点を持つことができるだけで良かったと感じるし、失敗したとしても、それをきちんと報告してくれれば、次は成功にいけるかもしれないね、という発想になる。基本的には応援してよかった、と思っていただけると思う」と説明した。

この記事は内容のみならず、ところどころ日本語がおかしく、原文では「成功にいける」と書いてあります。これは「成功する」ということだと思います。しかし、「研究が世の中の役に立つかどうか」と「研究が成功するかどうか」ということは、これまたまったく別次元の話であるはずです。研究は成功したけれども、その成果はまったく世の中の役に立たないということがあるわけで、そして、まさにそのような研究の価値について云々するのがこの記事の目的だったのではないでしょうか。

記事にはいろいろと気になるところがありますが、主なところだけでも挙げておくと、学問はそもそも・・・・役立つものでなければならないのかという問いと、学問はすぐに・・・役立たなければならないかという問いという本来異なる二つの問いが区別されずに論じられおり、加えて、「世の中の役立つかどうか」という話と「結果が出たかどうか」「成功したかどうか」という話も混同されており、そのため焦点がぼやけてしまっているのです。

大隅教授の言葉

ここで改めて、記者会見で発せられた大隅教授自身の言葉をひとつ引用させていただきたいと思います。

私もこのほかいろんな賞をいただいているので、この歳になると、私、豪邸に住みたいわけでもないし、外車を乗り回したいわけでもないので、私はできるだけなにか本当に役に立つことができればいいなと思っています。(大隅良典)

「大隅教授は学者が有用性を求めることに否定的」だとか「だから自分も有用性など求めない」などという言い分は見当外れであり、大隅教授自身は、世の中の役に立つことを志しているのです。研究者としてあるべき姿だと私は思います。

カントの立場

カントはその名も「理論では正しいからしれないが、実践では何の役に立たないという通説について」という論文において、自然科学者が砲弾の着弾点を計算しておきながら、実際にはそれとはまったく異なる結果が出たならば、研究者は世間の笑いものになって然るべきであると述べています。

同じ理屈を倫理学研究に当てはめれば、倫理学を研究している者が、罪状は何でもいいですが、例えば、セクハラやパワハラで捕まったという話を聞いたらどう思うでしょうか。「いったい何の研究していたんだよ?」と言いたくならないでしょうか。その捕まった者が「いやいや私が倫理学を研究していることと何の関係もないでしょ」などと発言したとして、納得できるかどうかということです。できるはずがないのです。

カントはそのような、倫理学に携わってはいるものの、理論と実践が結びついていないような人を「倫理学に詳しい人」と表現し、それらが一致している「倫理学者」からは明確に区別するのです。

実践哲学〔倫理学〕に詳しい者は、まさにそれだけで実践哲学者〔倫理学者〕であるわけではない。後者は、理性の究極目的とそれに必要な知識とを同時に結びつけることによって、理性の究極目的を自分の行為の原則にする人のことである。(カント『人倫の形而上学』)

倫理学者とは「善とは何か」「世の中を善くするためには」といった生き方に関わる問いに対して方向性を示す人たちのことなのです。そして、自ら方向性を示したのであれば、それに則って振舞うことができるはずなのです。もしそれができないということであれば、どこかに落ち度・欠陥があるのだと私なら考えます。

私は、言っていることと、やっていることが乖離していないかどうか、常に自問自答するようにしています。実際のところ、反省することばかりですが…