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自身の行為の動機について知りうるのか | カントに学ぶ意志の倫理学

自身の行為の動機について知りうるのか

自身の動機について知りうるかカント倫理学

まずは、前回の記事の復習からはじめたいと思います。

カントは当為(すべき)”Sollen”と可能「できる」”Können”の関係について、以下のように述べています。

人はあることをなすべきであると自覚するがゆえに、それをなしうると判断し、自らのうちに自由を認識する。(カント『実践理性批判』)

カントに言わせると、当為(すべきこと)は必ず可能である(なすことができる)はずなのです。可能性が担保されて、はじめて、それを「するか」「しないか」の判断、すなわち選択の自由の余地が認められるのです。

しかしながら!

カント先生はそう仰るものの、

本当にそう言い切れるのでしょうか?倫理的善をなすつもりであったものの、何らかの誤謬によって仕損ねてしまう可能性はないのでしょうか?

 

前回の記事において、考えられる誤謬の可能性として、道徳法則の導出にまつわる誤謬と、道徳法則の遵守にまつわる誤謬の可能性について吟味し、それらを退けました。

 

今回はもうひとつの誤謬の可能性について吟味したいと思います。それは動機にまつわる誤謬の可能性です。

 

動機にまつわる誤謬とはいかなる誤謬なのでしょうか。

それは以下のような問いの形で問題提起することができます。

私たちは自身の行為の動機について完全に知りうるのでしょうか?

 

「まったく知りえない」と答える人はあまりいないと思います。そして、「完全に知りえる」と答える人もあまりいないと思います。となると程度問題ということになります。

この点についてカントは何を言うのでしょうか。

カントの姿勢が表れている文面を二か所ほど引用しておきます。

自分自身の行為原理ですらも、常に観察できるとは限らない。(カント『単なる理性の限界内の宗教』)

いやしくも、自分自身の衷心まで見透すことは不可能だからである。(カント『人倫の形而上学』)

「常に観察できるとは限らない」「衷心まで見通すことは不可能」という言い方がされています。完全には知りえないものの、たいていは、そして、ほとんど知りうることが説かれていると解釈できます。ただ逆から言えば、知りえない領域が確実に存在することが指摘されているとも言えます。

この点をつく批判を展開した人物がいます。それがショーペンハウアーです。彼は以下のようなカント倫理学批判を展開しています。

カントの根本規範は、彼が主張しているような善意志による絶対的な要求などではなく、本当は利己的な条件による要求なのである。(ショーペンハウアー『道徳の基礎について』)

要するに、たとえ人が非利己的な善意志から行為したつもりであったとしても、自分でも気がつかないうちに、そこに利己心が介在してしまうものであり、そのためそこに倫理的価値は認められないはずであると言っているのです。

もし、ショーペンハウアーの言い分が正しいとすると、カント倫理学は根本から瓦解するように思えます。――まず、自身の行為の動機ですら知りえないのであれば、非利己的な善意志から行為したつもりでも、実際には利己的な動機から振舞っていた可能性を否定できなくなります。すると、「当為は可能を含む」というカントが掲げるテーゼも成り立たなくなります。当為を自覚していながらも、倫理的善をなすことができない事態が想定されるのです。

実際ショーペンハウアーは、カント倫理学の妥当性を全否定するかのような言明をしています。

いかなる人間も、人生を真剣に生きるので精一杯で、そんな〔カントが築いた〕空中楼閣建築の成果には見向きもしないであろう。そして、その成果が及ぼす影響といったら、大火災に対する浣腸器ほどのものであろう。(ショーペンハウアー『倫理学の基礎について』)

ショーペンハウアーという人物は妙に人間味があって、文面に感情がにじみ出ており、批判が辛辣なのです。カント倫理学は「空中楼閣」であり、その成果は「大火災に対する浣腸器」ほどだというのは、なんとも彼らしい、おもしろい例(たと)えだと思います。

本当にカント倫理学は、空中楼閣(つまり、見かけ倒し)であり、その価値は大火災における浣腸器レベル(つまり、ほぼ皆無)なのでしょうか。その是非については次回の記事において論じることになります。

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