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カントの反論 | カントに学ぶ意志の倫理学

カントの反論

可能は当為を含むカント倫理学

カントの生前から存在した、彼の倫理学に対する批判を前回の記事において紹介しました。それは以下のようなものでした。

(カントは非利己的な善意志からの行為に倫理的価値があると言うものの)人は自分の動機ですら知りえないのではないか?

だとすれば、人はカントの言うような非利他的に行為したつもりであっても、実際にはそうではなく、利己的に振舞っている可能性を排除することができないのでは?

このような批判に対して、カントは理論と実践の結びつきの問題について扱った論文、「理論と実践」において、以下のように反応しています。

どんな人間でも、彼の義務をまったく非利己的に実行したと確実に意識できるものでないことは、認めるのにやぶさかではない。(カント「理論と実践」)

カント自身が、行為者自身が自分の動機の中身ですら十全には知りえないと考えていることは、前回の記事においても触れました。内容的にはその繰り返しであり、私たちにとって目新しい情報ではありません。

ここで注目すべきはむしろ、先の引用文の後に続く、カントの以下のような文面です。

人間にして、彼が意識し、またこよなく尊重するところの義務を、まったく非利己的に(諸他の動機を交えることなく)実行しえた者はおそらくいないであろう。(カント「理論と実践」)

簡潔な一文ながら、実に衝撃的なことが述べられています。カント自身、非利己的な善意志からの行為にのみ倫理的価値があると説いておきながら、現実にはそれをなした人間など未だかつてひとりとしていないであろうと言っているのです。

カント自身にこう言われてしまうと、以下のように思ってしまう人が出てくるのも無理からぬことなのではないでしょうか。

もし、今までにひとりもいないのであれば、私などにできるはずもない。

これから先もひとりも現れないのでは?

カント自身による、倫理的善が現実にはほとんど不可能であることを認めるかのような発言は、彼がそれまでに積み上げてきたものを(そして、私がこのブログで扱ってきた内容を)根底からひっくり返し否定する発言のように映ります。

しかし、結論を焦ってはいけません。カントの真意は、そこにではなく、その後に記されているのです。

それにもかかわらず、彼が丁寧綿密に自己検討を施すならば、彼はかかる付帯的動機を意識しないばかりでなく、むしろ義務の理念にい反して従ってまた行為原理に対抗するような幾多の動機を拒否し、義務概念の純粋性を求めて努力していることを自覚しうるし、また実際に、彼はこのことをなしうるのである。彼が義務を遵守するにはこれで十分なのである。(カント「理論と実践」)

別記事において、道徳法則の導出にまつわる誤謬と、道徳法則の履行にまつわる誤謬の可能性についてはすでに退けました。

道徳法則に従っているつもり・・・に過ぎない可能性について
道徳法則に従っているつもりが、実際にはそうでなかったということがありうるのでしょうか。ありうるとすれば、その場合の倫理性はいかに。

道徳法則でないものを道徳法則と見なしてしまったり、道徳法則に従っているつもりがそうでなかったということが起こり、その誤謬のために道徳的価値が認められない可能性は排除されているという話でした。自分が正しいと思い、それに従っている主観的な自覚や確信があれば、それで十分であるというのがカントの立場でした。動機にまつわる誤謬に関しても、基本的には同じ理屈が貫かれていると言えます。つまり、(実際にそれができているのかどうかは別にして)非利己的な善意志から行為するよう努力すること、そして、そのことを自覚・確信することはできるはずなのです。

ここに「いや、それは思い込みに過ぎないのであり・・・」とか「本人も知りえない深層心理において・・・」といった他者からの異論が入り込む余地はないのです。

ただ、「主観的な自覚や確信があればよい」という文面だけ切り取ると、他者を排除した、自己中心的な姿勢のようにも思えるかもしれませんが、そうではありません。主観的な自覚や確信に至るには、踏まなければならない手続きがあるのであり、その過程において利己性は削ぎ落とされていくのです。

ここでその手続きの中身について確認しておくと、道徳的善への第一歩として、まず人は道徳法則を導かなければなりません。そのためには普遍的な視点に立ち、どのような行為原理が万人に望ましいものとして受け入れられるのか吟味する必要があります。ここで(つまり普遍的な視点からは)自分勝手な行為原理は退けられることになるのです。このような「普遍化の思考実験」をパスした行為原理のみが、道徳法則の名に値するのです。

とはいえ、道徳法則に則って振舞うことが、直ちに非利己的であるわけではありません。例えば、見返りへの期待や自己満足のために道徳法則を守るということもありうるからです。人は道徳法則を、利己的な都合によってではなく、それが道徳法則であるために(つまり、非利己的に)なして、はじめてそこに道徳的価値が認められるのです。ここに至って利己性は完全に排除されるのです。

そのためには、一部の人のみが有するような特別な能力、知識、運といったものは必要ありません。何らの落ち度が介在するこよにより倫理性が認めれない可能性というのは皆無なのです。倫理的善のために求められるのは、誰もがそれを行使する権能を持つはずの、自ら考え、決断し、それに則って行動するための決意(Mut)と、そのための勇気(Entschließung)なのです。

秋元
秋元

それなら確かに自分にでもできるのかな。

カントは、論文「理論と実践」においても、それまで通りに、「当為(すべき)は可能(できる)を含む」というテーゼを繰り返すのです。

人は、そのことをなすべきであるが故に、それをなしうると自覚するのである。(カント「理論と実践」)

当該論文において、当為(すべき)と可能(できる)の結びつきについて焦点が当てられたのは、理論と実践、当為と可能は、パラレルになっているためだということが指摘できるのではないでしょうか。すなわち、理論的に当為(すべきこと)が明らかになれば、実践においてもそれは可能であるはずなのです。

カント
カント

私はできないことは要求しないよ。

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