今回も引き続き、コロナウイルス対策についての話をしたいと思います。まず前回の記事内容の確認です。
コロナウイルス対策に関して、専門家のなかでも、さまざまな意見があります。それを聞いている私たちは「何が真実なのか」「何が正しいのか」と疑心暗鬼に陥るかもしれません。しかし、未知のウイルスを前に「真実」だの「正しい」だのと言いだすことに、そもそも無理があると考えるべきなのではないでしょうか。
だからといって、知ろうと努力する必要がないということではありません。むしろ、逆です。真実や正解にたどり着けなくとも、そこに向かって努力することはできるはずであり、そこに価値があるのです。
前回の記事の内容はここまででした。ただ、これだけでは話が抽象的過ぎるとも言えます。今回はもう一歩踏み込んで、知ろうと努力をするにしても、具体的にどのような姿勢で臨めばよいのかという話をしたいと思います。
学問的態度
まずは、カントが学問に携わる者がどうあるべきかについて論じている箇所があるので、その文面を見てみたいと思います。
私は、そのような学者〔=自分の立ち位置からでしか物事を見ようとしない学者〕を、一つ眼の巨人と呼ぶ。彼は学問的エゴイストであり、そのような人には、もう一つの眼、彼の対象を他人の立場から眺めるような、もう一つの眼が必要である。学問の人間性、すなわち、自分の判断を、他の人々の判断とつきあわせて吟味することによって、それに社会性をもたせるということは、ここにもとづく。(カント『人間学遺稿』)
カントは自分の視点から動こうとしない学者を「学問的エゴイスト」と呼ぶのですが、なぜ「エゴイスト」なのかというと、彼はそこに「傲慢さ」を見るからです。このことはカント倫理学の性格から看取することができます。彼は「普遍化の定式」によって、客観的な視点に立って考えることを要求します。それによって傲慢さは希釈されるためです。それをせずに、自分の主観的な視点のみに留まって、そのため自らの都合を押し付けようとする態度は傲慢であり、その者はエゴイストなのです。
私たち一般の人々は、どの学者が一つ眼の巨人であり、学問的エゴイストなのか、目を光らせる必要があるのです。ただそのためには、一般の我々自身が、より多くの学者の意見に耳を傾けることが求められるのです。多くの意見に触れなければ、精査することなどできないからです。つまり、学者だけではなく、私たちひとりひとりが、一つ眼の巨人、学問的エゴイストにならないように気をつけるべきなのです。
ドイツのコロナ懐疑論者たちが招いたこと
現在、コロナの感染者数、死者数ともに、アメリカがもっとも多くなっています。
コロナウイルスを軽視するトランプ大統領の姿勢が反映していることは疑いようがありません。
ドイツでも似たようなことが起きています。東西ドイツが統一されて、すでに30年以上が経っていますが、未だにさまざまな面で差があります。例えば、旧東ドイツの地域は保守的であり、AfDという極右政党が幅を利かせています。そのAfDはトランプ同様、コロナを軽視する姿勢なのです。例えば、ザクセン州にバウツェン(Bautzen)という町があります。夏の段階でこの町に関する以下のような記事が出ていました。
この町の幹線道路沿いにたくさんの人が立っているのです。そして、彼らは「コロナなんて存在しない」「マスクなんて無意味」などと書かれたプラカードを掲げて立っているのです。また、先ほど触れたAfDという極右政党の旗や、かつてのドイツ軍旗なども目につきます。
旧東ドイツの地域はもともと人(特に外国人)の移動が旧西ドイツの側に比べて頻繁ではないこともあり、当初は感染者数・死亡者数とも少ない数で推移していました。ところが、ここにきて、事態は急激に変わってきています。以下は年末の記事です(先の記事の約半年後)。
年末から、バウツェンという都市圏のコロナウイルス感染者数が爆発的に増えてしまったのです。それを受けてザクセン州はドイツ政府よりも厳しいロックダウンをかけました。それもあって、年明けから感染者数・死者数は幸い減少傾向にあります。
バウツェンにおける反コロナの活動はおそらく縮小していくでしょう。しかし、はじめから彼らが、一つ眼の巨人にならないよう、学問的エゴイストにならないように、情報取集にあたっていれば、こんなことにはならなかったはずなのです。
彼らのなかには、一つ眼の巨人にならないよう、学問的エゴイストとならないように努めていたことを強弁する人もいるかもしれません。しかし、私はそこに懐疑的な目を向けます。ドイツで普通に国営テレビや一般紙を読んでいれば、世界で何が起きており、コロナウイルスがどれだけ危険であるかということが伝わるはずです。もう少し詳しく知りたければ、ロベルト・コッホ研究所が定期的に会見を開いて、情報を開示していますし、幸いドイツには、クリティアン・ドロステン(Christian Drosten)やアレクサンダー・ケックレ(Alexander S. Kekulé)といった著名な専門家がおり、さまざまなメディアを使って分かりやすく説明をしています。ポットキャストなどで、一般の人からの質問に答えるようなこともしています。いくらでも情報を得ることができる環境にあるのです。
その分野の第一人者や、主要メディアに対して、情報を鵜呑みにしないで、自ら吟味することも確かに大事なことです。しかしながら、他方で、それらを全否定するというのは相当な「荒業」であるはずなのです。
どうしてそんな「荒業」が可能になるのかというと、私はそこに利己性を見出します。それは例えば、「真実を知りたくない」「窮屈な暮らしなどしたくない」「今まで通りの生活がしたい」といった感情です。人間とは、元来、物事を自分にとって都合の良いように解釈しようとする生き物なのです。しかし、その感情に流されていてはいけないのです。
まとめ
今の時代はさまざまな媒体から、例えばインターネットなどを通じて、多くの情報を得ることができます。ただ、これは諸刃の剣であり、情報を集めること自体は容易になりましたが、情報に溺れてしまう可能性もあります。または、自分に都合の良い情報を恣意的に集めやすくなったとも言えます。だからこそ、一つ眼の巨人にならないように、学問的エゴイストにならないように、自分の都合を捨象して、客観的な立場から情報を集め、精査する姿勢が求められるのです。