前回の記事において触れましたが、ユダヤ人を強制収容所に送る任務に就いていたナチスの高官、アドルフ・アイヒマンは、戦後裁判にかけらた際に、カント倫理学を盾に自身の行為の正当性について主張したのでした。
しかしカントは、普遍的な視点に立って、誰もが(そこには当然、ユダヤ人も含まれる)望ましいと思えるような行為原理を立て、それに従うことを求めます。その内容に鑑みると、アーレントの指摘するように、アイヒマンの言明は、「勝手極まりない言い分」に映ります。
ただアイヒマンの言明は、「何の益もない言い訳」の一言で片づけることができない重要な問題提起を孕んでいます。私自身は以下のような疑問を抱いたのです。
例えば、「借りた物は期限内に持ち主に返す」という命題は道徳法則に合致すると思います。しかし、凶器となるようなナイフを借りていて、期限の当日に返そうとしたものの、その持ち主が泥酔していたとすれば、話は変わってくると思います。
そのような状況下では、多くの人が「泥酔者にナイフを渡すべきではない」という命題を道徳法則と見なすのではないでしょうか。
しかしなかには、「それでも約束は守るべき」という命題を道徳法則と見なし、ナイフを泥酔している持ち主に渡してしまう人も出てくるかもしれません。
借りた物は返すよ!
うそーん
違うでしょー
ないない
泥酔者が取り返しのつかないことをしてしまう可能性がありますが、それでも借りた物を約束通りに返した人間の行為は(少なくとも本人がそう信じている)道徳法則に則って振舞ったために、道徳的善となる可能性があるのでしょうか。
このような議論のおかしさは、ひとりで考え、ひとりで決断を下してしまっている点にあると考える倫理学者の集団がいます。彼らは、ひとりではなく、みんなで考え、みんなが賛同できたものを規範とすべきと主張するのです。その創始者であり、もっとも有名な論者として、ユルゲン・ハーバーマスの名前を挙げることができます。
先の泥酔者の例に絡めて言えば、みんなで討議さえすれば、泥酔者にナイフを渡すことは危険であるために、避けるべきことは誰もが承認しうるはずであり、そのような手続きさえ踏めば、泥酔者が起こす惨事を食い止めることができるということになるのです。
ただハーバーマスの立場は少々ドラスティックであり、関係者すべて(ここで言う「関係者」が誰を指すのか曖昧)が討議に参加し、全員が賛同しなければならないと説くのです。
しかしながら、私たちは常に討議を行う時間的余裕があるわけではありません。また、仮に討議できたとしても、全員の賛同というのは高いハードルになります。ここでもまた泥酔者の例に絡めて説明すると、例えば、契約上、約束の期限を守らなければ、借りていた人に膨大なペナルティーが科せられるとします。そうなるとまた話は変わってくるのではないでしょうか。少なくとも、全員による承認という要件を満たすことは困難になってくると思います。今日、ハーバーマスの求めるような、関係者全員による討議と賛同という厳格な立場は、現実への適用に困難が生じるために、十全的な形で賛同する論者はほとんどいないと思います。
ハーバーマスと並んで討議倫理学の創始者と見なされている、カール=オットー・アーペルは、実際の討議ではなく、疑似討議で十分であるとしています。つまり、ある規範について実際に万人が同意する必要はなく、ひとりが「万人が同意するであろう」と考えれば、それで条件は満たすことになるのです。
今日、討議倫理学の賛同者は、ほとんどがアーペルのような疑似討議を想定しています。
しかし、もともと討議倫理学は、カント倫理学が他者を排除している点を問題視し、それを乗り越えるために生まれたものだったはずです。もし実際の討議ではなく、疑似討議を認めるのであれば、結局ひとりで考え、ひとりで決断を下すことになり、それはカントに帰る、少なくとも再度近づくことを意味するのではないでしょうか。
ここで話はもとに戻ることになります。つまり、ひとりで考え、決断を下すとなると、独断的になり、判断を誤る可能性が出てくるのではないでしょうか。この問題については改めて次回の記事において論じたいと思います。