数回にわたって、カント倫理学と幸福の関係について書いてきました。今回も関連する話になります。
カントは非利己的な善意志から行為することを求めます。普通に考えれば、より頻繁に倫理的善を行った方がよいように思えます。もっと言えば、ひと時も休まず倫理的善をなせるような状態が理想ということになるのではないでしょうか。しかし、そう考えると(常に非利己的な善意志から行為することが期待されるということであり)課題な要求とも言えます。
カントは、倫理的善を追い求め、自身の幸福について願慮すべきでない状況があることについて以下のように説明しています。
人びとは幸福に対する諸要求を放棄すべきであるということではなく、ただ〔倫理的〕義務が問題となるや否や、幸福をまったく願慮すべきでないということである(カント『実践理性批判』)
ここで重要なことは、カントが「義務が問題となるや否や」と断りを入れている点です。同じことを逆の視点から言えば、義務が問題とならない状況においては自身の幸福を願慮して構わないということなのです。
義務が問題とならない状況として、カントは具体的に以下のような例を挙げています。
道徳性に関してどうでもよいものをなにひとつ認めず、一歩一歩、歩くごとに義務を、まるで盗賊を捕えるために地上に置く人捕りわなでも撤くように、撒き散らし、そしてどちらも口に合うのに、肉を食べるか魚を食べるか、ビールを飲むかワインを飲むかといったことをどうでもよいことと見なさないような人は、偽りの有徳なる人と見なさざるをえない。(カント『人倫の形而上学』)
どんなに些細なことでも「無理やり」倫理的問題として捉えることは一応できます。例えば、ある人が毎朝ルーティーンとして(つまり、いちいち考えずに)、起床後すぐにトイレで用をたし、その後に顔や手を洗い、といった行動をとっているとします。そういった事柄について、「我慢するのは健康に良くないので起きたらすぐに用をたすべし」とか、「公共の福祉の側面から手や顔を洗うべき」といったように、強引に倫理的問題として捉えることができないわけではありません。しかし、カントはそのような態度を「偽りの有徳」と見なして、戒めるのです。
倫理的問いというのは無理やり作り出すようなものではなく、自然と立ち現れてくるものなのです。例えば、自分がこれから車を運転することが分かっているのに、アルコールを摂取したくなったとすれば、その時点で、アルコールを摂取するかどうかは倫理的な問いとして自覚されるのです。当然そこでは、利己的な都合ではなく、飲酒運転はすべきではないという倫理的な根拠を優先すべきということになります。
車を運転する前にアルコールを口にすべきでないことは倫理的義務であり、かつ、蔑ろにすることのできない義務と言えます。カントはこの種の義務を「完全義務」と呼びます。
他方で、その時点において、不履行が許される義務というものも存在します。例えば、アルコールを摂取し過ぎている人がアルコールを控えるべきと考えているような場合です。自身の健康に気を使うことは倫理的義務たりえますが、どの程度、気を使うべきかということは一概には言えない面があります。この種の義務をカントは「不完全義務」と呼びます。
カント自身は不完全義務の性質について以下のように説明しています。
この〔不完全〕義務は単に広い義務である。それはそこにおいて多かれ少なかれ働く余地を有しており、それについての限界ははっきりとはもうけられない。(カント『人倫の形而上学』)
アルコールを控えるべきことが分かっていても、実際にどの程度控えるべきかということは一概には言えず、各人で判断を下さざるをえないのです。
冒頭の問い、つまり、「私たちは倫理的善の名のもとに、どの程度、非利己的な善意志から行為すべきなのか?」という問いに答えると、必ず履行しなければならない状況ということであれば、以下の二つの条件がそろった場合ということになります(実際にはさらに条件をつけることができるのですが、話が細かくなってしまうので、ここでは触れません)。
- 倫理が関わる(無理に倫理に結びつける必要もない)
- 完全義務にあたる
私たちの日々の生活において直面する問いの多くは倫理的な問いではありません。それを無理やり倫理的な問いとして騒ぎ立てる必要もないのです。そして、倫理的な問いであったとしても、蔑ろにすることが許されないような完全義務に当たるケースは稀であり、その多くは、その場においては不履行が許容される不完全義務に分類されるのです。
カントが非利己的な善意志から行為することを求める論者であることは事実です。しかし彼が、いつでも・どこでも、常に倫理的善を追い求める(無茶な)ことを要求しているわけではないことが分かっていただけたのではないでしょうか。