功利主義者は一般的に、結果のうちに倫理的価値を認める立場と見なされています。しかし、前回の記事において触れたように、もし、結果のうちにしか倫理的価値が存しないとすれば、行為者の内面はどうでもよいことになってしまいます。赤ん坊が微笑んで周りが和めば、その行為は道徳的に正しく、夜泣きをして周りに迷惑をかければ悪ということになってしまうのです。
もうひとつ似たような例を挙げると、今後はどんどんロボット(AI)が巷に増えていくでしょう。ロボットが人々の幸福に寄与したのであれば、そのロボットの行為には倫理的価値があることになるのでしょうか。釈然としないものがあります。
実際の私たちの行為は、人々の幸福に寄与しようと思ったからといって必ず結実するわけではありません。もしうまくいったときにはその行為は倫理的に善であり、うまくいかなかったときには悪だとすると、それは結果論でしかないのではないでしょうか。
論者の意見
功利主義の創成期に活躍した二人の論者の意見を参照してみたいと思います。
ジェレミー・ベンサム
古典的な功利主義者の代表のひとりであるジェレミー・ベンサムは功利主義について以下のように説明しています。
功利性の原理とは、その利益が問題になっている人々の幸福を増大させるように見えるか、それとも減少させるように見えるかの傾向によって、または同じことを別のことばで言いかえただけであるが、その幸福を促進するようにみえるか、それともその幸福に対立するように見えるかによって、すべての行為を是認し、または否認する原理を意味する。(ベンサム『道徳および立法の諸原理序説』)
ベンサムは人々の幸福を増大させる行為が善であり、減少させる行為が悪であるとは言っていません。人々の幸福を増大させるように見える傾向を持った行為が善であり、そうでない行為が悪であると言っているのです。
この「傾向」(tendency)という語は二義的に解釈可能です。ひとつは「幸福を増大させることができればできるほど」という意味です。この場合、倫理性は結果そのもののうちにあることになります。ここではこのような功利主義を「結果功利主義」と呼びます。
もうひとつ考えられるのは、「幸福を増大させる可能性が高ければ高いほど」という意味、つまり、可能性の意味で解することです。この場合、倫理性は結果そのものではなく、幸福を生み出す可能性の高い行為を選んだ時点で、その行為は倫理的に善であることになるのです。つまり、結果は伴わなかったが、倫理的善であるということがありうるのです。ここではこのような功利主義を「過程功利主義」と呼びます。
一般的には功利主義は結果功利主義として説明されることが多いと思います。しかし、先の引用文を見てもらえれば分かるように、ベンサム自身は「幸福を増大させるように見える行為」という言い方をしています。実際に幸福をもたらした行為ではなく、幸福を増大させるように見える行為をなした時点で、倫理的価値が決まる(つまり「過程功利主義」)と解することはそれほどおかしな解釈ではないと思います。
ジョン・スチュワート・ミル
古典的な功利主義の代表としてもうひとり、ジョン・スチュワート・ミルの功利主義についても確認しておこうと思います。彼もベンサムと似たようなことを言っています。
『功利』または『最大幸福の原理』を道徳的行為の基礎として受けいれる信条にしたがえば、行為は、幸福を増す傾向に比例して正しく、幸福の逆を生む傾向に比例して誤っている。(ミル『功利主義論』)
ミルも、幸福を増大させる行為が正しく、それを減少させる行為が誤っているとは言っておらず、幸福を増大させる傾向(tend to)に比例して正しく、減少させる傾向に比例して誤っていると表現しています。これも二義的と言えます。
そして、これまたベンサム同様、ミルのテキストにも「結果功利主義」的な記述と、「過程功利主義」的な記述が併存しており、どちらともとれるような書き方がされているのです。
例えば、ミルは以下のように述べています。
功利性は行為のすべての帰結によって行為を評価する。(ミル『セジウイック論』)
ここだけ読むと、ミルは行為の帰結によって行為の善悪を判定する「結果功利主義」を掲げる論者のように映ります。
しかし、彼は別の箇所では以下のようにも述べているのです。
行為の道徳性は完全に意図に左右される。つまり、行為者が何をしようと意志しているかに左右される。(ミル『功利主義論』)
ここだけ見ると、ミルは道徳性は行為者の意図によって左右されるのであり、道徳性の試金石を人の内面に認める「過程功利主義」を想定しているように見えます。
結論
ベンサムのテキストからも、ミルのテキストからも(上述の箇所に限らず)「結果功利主義」的な解釈をとる論拠(典拠)も、「過程功利主義」的な解釈をとる論拠(典拠)も挙げることができてしまうのです。
自らの倫理学説の根幹に関わる部分をわざと分かりにくく書いたとは考えにくいので、彼らは「結果功利主義」と「過程功利主義」の差異について自覚しておらず、そのため曖昧な記述になってしまった、というのが実情なのではないでしょうか。
ひょっとすると、ベンサムもミルも、「結果そのもの」と「結果への考慮」の両方を倫理性の要件と考えていたのかもしれません。だとしたら、仮に一方しか備えていなかった場合の倫理性の有無や、倫理性が認められる場合の善性のレベル(どちらかがよりよいということがあるのかどうか)について説明する義務が生じるはずです。
ある倫理学説における倫理的善悪の基準が曖昧であれば、私たちはその理論を使って行為の倫理性について判定することができません。これは致命的な問題だと思うのですが、当事者たち(今日活躍している功利主義研究者も含めて)は、どうも自覚しているようには見えないのです。
功利主義者を自認する人に会うたびに、私は同じ質問をしているのですが、満足できる回答が得られたことがありません。
もし答えられる人がいれば、コメントください(ペコリ)