web counter
考慮と帰結の関係―スポーツ編 | カントに学ぶ意志の倫理学

考慮と帰結の関係―スポーツ編

采配の是非についてカント倫理学

前回の記事において、考慮の妥当性と結果は必ずしも一致しないという話をしました。そういった事態がもっとも顕著な形で表れるのがスポーツなのかもしれません。

スポーツにおいて、すべてを直観に頼って監督が判断を下していては勝てません。勝つためには、根拠をもとに判断を下すことが求められます。根拠がある方が、それも、より強い根拠がある方が、望ましい結果がもたらされる可能性が高まるからです。

とはいえ、根拠さえしっかりしていれば、必ず良い結果がもたらされるというわけではありません。人はどれだけ考慮を巡らせようとも、すべてを予見することなどできないためです。

そのようにして仮に結果が望ましいものでなかったとしても、根拠さえしっかりしていれば、その考慮や判断は正しかったことになるのです。(現実には誤って両者が混同されることが多いのですが)本来は結果によって、考慮や判断の評価が上がったり、下がったりするわけではな(してはならない)のです。

考慮や判断の妥当性を担保するのは根拠であるという理屈は、そのまま倫理に関しても当てはまります。

実践哲学は、より強い責務が優位を占めるとは言わずに、より強い義務付けの根拠・・・・・・・が場所を占めると言うのである。(カント『人倫の形而上学』)

倫理的な事柄についても、それ以外の事柄の考慮の妥当性についても、根拠を持って行為したのかどうかは本人にしか分かりません。つまり、倫理的善悪にしても、望ましい結果を得るための考慮についても、他者がその妥当性を判定するためには、行為者の言い分を聞く必要があるのです。

倫理に関して、相手の内面に関心を向けずに、その者の倫理性を決めつけるべきではないという内容については、すでに別の記事において論じたことがあります。

他者の行為の評価については慎重であるべき
他者の行為について、その善性を決めつけてはいけないと再確認した経験について。

スポーツの場合は、とりわけ監督の采配が裏目に出た場合に、解説者と言われる人が、その場で采配に対して「判断ミス」のレッテルを貼ることがあります。しかし試合の最中に、采配を下した人間の言い分も聞かずに、その妥当性を決めつけることなど本来はできないはずなのです。そのような「決めつけ」は避けるべきでしょう。仮に結果が伴わなかったとしても、そのような判断を下すだけの十分な根拠があったかもしれないからです。

自らの判断がミスでないことを他者に理解してもらうには、自身の判断の拠り所となった根拠について指揮官自らが説明する義務が生じます(「言い分も聞かずに批判するな」と言いながら、自らの考え方について自身で明らかにしようとしないのでは筋が通りません)。

悪例をひとつ挙げれば、当時バイエルン・ミュンヘンの監督であったカルロ・アンチェロッティは、チャンピョンズリーグにおいて、パリ・サンジェルマンとの試合にベストメンバーとは程遠い布陣で試合に臨みました。そして、結果は0対3での完敗でした。彼は試合後、「誰が出ても同じだ」と吐き捨て、それ以上は語らなかったのです。これでは誰も納得しません。なぜそのメンバーで試合に臨んだのかについての根拠はまったく示されていません。

アンチェロッティは試合後に解任されました。どれだけ考えた末での決断であったのかについて自身で説明できないのであれば、それは落ち度を見なされても仕方ないでしょう。

もちろん、様々な理由から、言えることと、言えないことがあります。なにも全部を語る必要などありません。ただ、しっかり考えていることが見てとれる程度の説明は必要だと思うのです。

タイトルとURLをコピーしました