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自分の子供によりよい教育を受けさせる義務 | カントに学ぶ意志の倫理学

自分の子供によりよい教育を受けさせる義務

子供の日本語教育カント倫理学

↑5歳になったばかりの息子が書いた、ひらがなと足し算です。

私が「パパはやることがあるから、ちょっと一人で遊んでいて」と言うと、息子はひらがなや足し算の練習をはじめます。

このような書き方をすると、「ほっといても勝手にお勉強するのか?」と思われるかもしれませんが、そうではありません。私がそうなるように仕向けているからです。そういう意味では「やらせている」と言えなくもありません。

やらせているのか、そうではないのか

前回の記事において、教育における強制と自由の話が出てきました。強制だけでも、反対に、自由だけでも、教育は成り立ちません。被教育者は自分の自由を行使できるようになるために、教育者によってある程度の強制を加えられる必要があるのです。

私たちは子供たちに強制を加えるが、その強制は彼自身を導いて、自分自身の自由を使用できるようにするものであること、また、子供を教化するのは、彼が将来自由になることができるためであり、換言すれば、他人の配慮に寄らなくてもよいようにするためである。(カント『教育学』)

親が何もしないのに、子供が勝手に勉強をはじめ、実際に勉強ができるようになるなどといったことはありえません。

特に私の子供たちの場合、日本語教育に関しては、私たちがドイツに住んでいるため、何もしなければ子供たちは日本語に触れる機会すらほとんどないことになります。彼らが日本語ができるようになるためには、こちらが日本語に触れる環境を作り、子供たちの関心がそちらに向くように仕向けなければならないのです。そういった道を通じて、はじめて子供たちは自分から学ぶ気になり、実際にできるようになっていくと思うのです。

やらせない選択肢

私の住んでいる町は人口10万程度の(ドイツでは)中規模都市ですが、町にはちらほら日本人も住んでおり、子供のいる家庭もあります。彼らに寺子屋のようなものをやらないか提案しているのですが、あまり食いついてきません。

日本に帰る予定がないために、子供に日本語教育を受けさせる必要性を感じない、もっと言えば日本語教育を諦めているということなら、それは家庭の事情であり、教育方針なので、私がとやかくいうことではありません。

他方で、日本語はできるようになってほしいと言いながら、そのための環境を整えようとしないというのであれば、それは筋が通らないのではないでしょうか。

私がしばしば耳にするのは、「まだ早いと思う」「そのうち」といった答えです。言語を習得するのは早ければ早い方がよいはずです。また、学校に上がるようになれば、忙しくなります。学年が上がれば上がるほど忙しくなっていきます。スタートを遅くするメリットがあるとは私には思えないのです。

また、特に両親とも日本人の家庭の場合には、「家では日本語を使っているから、日本語に関しては心配していません」と言うような人がいます。確かに両親とも日本人であれば、家庭の会話は100パーセント日本語なので、子供の会話力はそれなりに上手になると思います。しかし、もし親としか日本語で話さないとなると、たった二人の大人が使う偏った表現しか身につかないことになります。友達と話すような砕けた表現や、外で使うような敬語などは身につきません。また、読み書きはどうするのでしょうか。親が自分ですべて教えるつもりなのでしょうか。それが非現実的な計画であることに気づいてからでは、タイミングを逸してしまうことになるのではないでしょうか。

このように書きましたが、本当に彼らは本心から「まだ早い」とか「心配していない」と発言しているのでしょうか。どうも私には他の理由があるように思えてならないのです。

やらせる義務について

カントは自身の能力を伸ばすことを義務のひとつに数え上げていますが、私は自分の子供の能力を伸ばすように努めることもまた(親としての)倫理的義務に数え挙げることができると考えています。

関連することは近著『意志の倫理学――カントに学ぶ善への勇気――』の第5部において論じているので、関心のある方はそちらを参照してみてください。

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